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文体の濃淡

文体の濃淡

カテゴリ : 
くもの舌 (言葉について気が付いたこと、考えたこと)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2010-10-18 20:50

先日の朝、山手線の下でオゼキさんと文学について話した。オゼキさんは最近、友人の勧めで川端康成の『雪国』を読み返したそうだ。どうも、その作者が冷たい人であったろうという印象を払拭できなかったようだが、文体が美しいという印象が強かったそうだ。

私が『雪国』の読んだのは日本語を勉強し始めてから2年ぐらいのときだったので、文体の美しさどころかストーリーの大半がわからなかった。同時期に、『こころ』や『金閣寺』など、20世紀の代表作も読んだが、消化不良に終わってしまった。日本語の理解がまだ中途半端な段階では、文学的価値があまりない娯楽小説を多読すべきだったと、今は反省している。平凡な文を長く読み続けていれば、素晴らしい文にやっと出会っとき、その素晴らしさが見えてくるはずなのだ。

20年間近く、社会人の小グループに文学を教えたことがある。題材は米国の現代短編が中心だった。授業の進め方は非常にシンプルで、私が短編の2ページぐらいを読み上げた後、予習してきた生徒たちが単語の意味や文化的な背景などについて、いろいろ質問してくれた。その質問に答えながら、文章の意味だけではなくその文学としての価値(または無価値)も生徒たちにわかってきた。私にとっては、声を出して良い文を読み上げることも、文学作品を細かいところまで解説することも非常によい経験だった。そのおかげで、私が書く英文も少し上達したと思う。

文学作品を深く読み込んで生徒たちに解説する過程で、文体というものも少しわかってきたのだ。今でも特に印象に残っているのは、レイモンド・カーヴァーとジョン・アップダイクの文体だ。カーヴァーの短編もアップダイクの短編も、何回読み返してもいつも新しい発見が待っていて、文学性の高い作品でありながら、文体はかなり違う。

例えば、カーヴァーの “Where I'm Calling From” という短編には、次のパラグラフがある。

 

  For New Year's Eve dinner Frank Martin serves steak and baked potato. A green salad. My appetite's coming back. I eat the salad. I clean up everything on my plate and I could eat more. I look over at Tiny's plate. Hell, he's hardly touched anything. His steak is just sitting there getting cold. Tiny is not the same old Tiny. The poor bastard had planned to be at home tonight. He'd planned to be in his robe and slippers in front of the TV, holding hands with his wife. Now he's afraid to leave. I can understand. One seizure means you're a candidate for another. Tiny hasn't told any more nutty stories on himself since it happened. He's stayed quiet and kept to himself. Pretty soon I ask him if I can have his steak, and he pushes his plate over to me.

 

このように、語彙が平易で文法が簡単な短いセンテンスは、カーヴァーの文体の特徴だ。彼は余計な形容詞や洒落た表現を意図的に文章から省こうとしていたようだ。I could eat more や just sitting there getting cold など、会話でよく使う言い回しも多いので、個性のない文体にも見える。授業でカーヴァーの短編を取り上げたとき、語彙についての質問はほとんどなかった。このブログの読者たちにも、それぞれのセンテンスの意味を理解するにはほとんど努力が必要はないと思う。しかし、カーヴァーの短編を読んだら、その全体の意味、カーヴァーが伝えようとしていたメッセージが完全に理解できたと自信を持って言えないと思う。私も、授業を準備していたときも、さらに授業中でも、その短編を何回も読み返したが、完全に理解できたとは思っていなかった。


対照的に、アップダイクの文章には凝った語彙や表現が多用されている。例えば、 “Transition” という短編には、次のパラグラフがある。

 

   The routed but raffish army of females still occupied their corner and dim doorways beyond. Our non-passerby hesitated on the corner diagonally opposite, where in daytime a bank reigned amid a busy traffic of supplicants and emissaries only to become at nightfall its own sealed mausoleum. He saw the prettiest of the girls, her white face a luminous child's beneath its clownish dabs of rouge and green, approached by an evidently self-esteeming young man, a rising insurance agent or racketeer, whose flared trouser-legs protruded beneath a light-colored topcoat, correctly short. He talked to the girl earnestly; she listened; she looked diagonally upward as if to estimate something in the aspiring architecture above her; she shook her head; he repeated his importunity, bending forward engagingly; she backed away; he smartly turned and walked off.

 

私が教えた社会人たちは、予習のとき、 routed や raffish、 supplicants や importunity など、このパラグラフだけで多数の単語を辞書で調べる必要があった。そして、 a bank reigned や self-esteeming young man、correctly short や aspiring architecture など、アップダイクが創ったコロケーションも多かったので、短編の一ページだけの解釈には一時間以上を費やしたこともあったと記憶する。でも個別の言葉や表現の意味を解釈したら、短編全体の意味は生徒たちにも私にもだいたい理解できたと思う。文体は難しかったが、ストーリーは別にそうではなかったのだ。カーヴァーとの面白い対照だった。

今月からは、大学の一年生向けに Reading John Updike という授業を受け持つようになった。取り上げる予定の短編 “The Christian Roommates” は約10,000ワードにも及ぶアップダイクらしい濃い文体なので、今学期中に読み通せるかどうか不安でもある。しかし、先日、第一回目の授業では学生たちが興味を示してくれたので、楽しみにもしている。

この授業の計画をオゼキさんに言うと、ブックオフでアップダイクの和訳本を探しに行ったが見つからなかったそうだ。それはよかったかもしれない。私は以前に、村上春樹によるカーヴァーの和訳を読んでその素晴らしさを感動したことがあるが、どんなに優れた翻訳者でもアップダイクの文体の素晴らしさを他の言語に再現するのは無理に近いと思う。


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