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偶然句

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くもの舌 (言葉について気が付いたこと、考えたこと)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2011-1-17 21:50

現在、私が担当の英文ライティング授業には、シェークスピアが大好きな大学一年生がいる。彼はこの間、自作のソネットを私のところに持ってきて評価を求めた。ソネット創作は英語の定型詩の中でもっともハードルが高いとされ、特に日本語と英語ではアクセントや拍(音節)の捉え方がかなり違うので、日本語を母語とする人にとっては iambic pentameter (五歩格)で詩を書くのはなかなか難しいのであろう。(五歩格は、Fròm fáirèst créatùres wé dèsíre ìncréase, / Thàt thérebỳ béautỳ's róse mìght névèr díe  のように、「弱強」が5回繰り返される詩行のこと。)

 

その学生が最初に持ってきたソネットは、内容は良かったが、一行当たりの音節数や行末の韻については厳密なソネット形式から少しはずれていた。any という単語に二つの音節があるとか、same や some など、最後の子音だけでは韻を踏んだことにならないと説明したら、彼はすぐ理解して、数日後に持ってきた二作目はほぼ完璧だった。

 

英語の定型詩は他のヨーロッパ言語の定型詩とかなり似ているようだが、日本語で同じ形式で書こうとすると不自然になるだろう。(やったことがないが…) しかしその逆、すなわち日本語の定型詩の英語での再現はあまり難しくない。私はかつて、ある出版物のためにかなりの数の俳句と短歌を英語に翻訳したことがある。日本語の五七五を英語でも同じ音節数にするようにと編集者に言われたので、例えば、芭蕉の

 

古池や 蛙飛込む 水の音

 

 

It’s just an old pond.
A frog jumps in. Then it’s just
the sound of water.

 

にした。

 

英語は母音も子音も日本語より多く、/skl-/ や /-rsts/ のような子音連結も多数あるから、同じ音節の数で日本語よりも多くの情報を伝えることが可能だ。上の英訳でも、二つの just が意味的には不要だったが、英語でも五七五にするため入れておいた。(それらの just が「この句にはもう飽きた」という印象を与えたら、それはまったくの偶然であろう。)

 

英語の俳句を思い出したのは、この間 Haiku Finder というサイトを見つけたからだ。このサイトは、コピペしたテキストから音節がたまたま五七五になったセンテンスを自動的に抽出する。私は以前から偶然にできた「詩」が好きなものだから、早速、1911年のブリタニカ大百科事典で「俳句」を探してみた。次の結果は「詩」かどうかわからないが、なかなか妙味があると、私は思う。

 

The summer is hot,
but on the whole the climate
is very healthy.

 

On leaving Oxford
he made the usual tour
on the continent.

 

His death at the Hague
was suspected of being
due to poisoning.

 

Immortality,
then, is not unreasonable;
it is probable.
(字余りだが内容で許す)

 

In fact, every line
through any point in the curve
contains such a point.

 

For most of the year,
and most of the zone, settled
weather is unknown.

 

A remarkable
shrine with fetish idols was
also discovered.

 

It is here of course
assumed that the n lines are
really utilized.

 

It is readily
soluble in alcohol,
ether and benzene.

 

The coat is short, thick
and silky, and the tail is
long and tapering.

 

Often they are stuck
together like piles of shot
or bunches of grapes.

 

His head was struck off
by Richard, and was sent round
the ports on a pike.

 

Various reasons
account for its having been
allowed to survive.

 

There had been heard no
music like his in Holland
for two hundred years.

 

長い間、このブログを更新できなくて、お詫び申し上げます。

母語のど忘れ

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くもの舌 (言葉について気が付いたこと、考えたこと)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2010-11-29 21:10

「あやとりは、アメリカにもありますか」と、先日の朝、山手線の下でオゼキさんに聞かれた。突然の質問だった。オゼキさんは時々突然の質問を発する人である。後になってわかったが、私が到着する前にテンさんとあやとりについて話していたようだ。

 

私が子供のころ、姉たちがよくあやとりをしていた時期があったので、躊躇なく「はい、あります」と答えられたが、どうしてもあやとりの英語名を思い出せなかった。職場まで歩いていた間もずっと考えたが、やはりその言葉が出てこない。

 

職場に着くと、辞書を引く前にウェブで調べてみた。日本語のウィキペディアで「あやとり」を検索して、そこからリンクされている英語ページは “String figure” と題されているが、私にはその名前がピンとこなかった。“A string figure is a design formed by manipulating string on, around, and using one's fingers or sometimes between the fingers of multiple people.” と定義されているので、姉たちの昔の遊びと同じものを指しているが、string figure という名称は知らなかった。やっと KOD で調べたら、 cat's cradle という英訳が出ていた。それは間違いなく、私が子供のときに聞いていた呼び名である。

 

それでも、 string figure は間違いというわけではなく、むしろ cat's cradle より相応しい英語と言えるかも知れない。String Figures: A Study of Cat's-Cradle in Many Lands という「くも本」は1906年に出版されているし、国際あやとり協会が英語で International String Figure Association と呼ばれるように、string figure という名称が昔から定着している。「あや」の一つを指す cat's cradle(「猫の揺りかご」)はむしろ可愛い俗称にすぎないのだ。

 

いずれにしても、くも本たちのページを捲ったら、あやとりの奥深さを知った。さまざまな民族があやとりをやっているようで、文化人類学の研究対象にもなっている。私が string figure という名称を知らなかったのは、単なる無知なのだ。

 

次の日、調べ物の結果をオゼキさんに報告したら、これからは若者の間であやとりが流行ってくれるといいなと、面白いことを言った。オゼキさんは面白いことをよく言う人でもある。私は子供のときにあやとりをやってみたがうまくできなかったし、これからもあやを取らないと思う。ただ、言葉のあやには強い興味を持ち、この間は『英語のあや』と題する本すら世に送ってみた。読者の皆さんも、糸のあやはともかく、『英語のあや』を手に取っていただいたら嬉しく思う。

文体の濃淡

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くもの舌 (言葉について気が付いたこと、考えたこと)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2010-10-18 20:50

先日の朝、山手線の下でオゼキさんと文学について話した。オゼキさんは最近、友人の勧めで川端康成の『雪国』を読み返したそうだ。どうも、その作者が冷たい人であったろうという印象を払拭できなかったようだが、文体が美しいという印象が強かったそうだ。

私が『雪国』の読んだのは日本語を勉強し始めてから2年ぐらいのときだったので、文体の美しさどころかストーリーの大半がわからなかった。同時期に、『こころ』や『金閣寺』など、20世紀の代表作も読んだが、消化不良に終わってしまった。日本語の理解がまだ中途半端な段階では、文学的価値があまりない娯楽小説を多読すべきだったと、今は反省している。平凡な文を長く読み続けていれば、素晴らしい文にやっと出会っとき、その素晴らしさが見えてくるはずなのだ。

20年間近く、社会人の小グループに文学を教えたことがある。題材は米国の現代短編が中心だった。授業の進め方は非常にシンプルで、私が短編の2ページぐらいを読み上げた後、予習してきた生徒たちが単語の意味や文化的な背景などについて、いろいろ質問してくれた。その質問に答えながら、文章の意味だけではなくその文学としての価値(または無価値)も生徒たちにわかってきた。私にとっては、声を出して良い文を読み上げることも、文学作品を細かいところまで解説することも非常によい経験だった。そのおかげで、私が書く英文も少し上達したと思う。

文学作品を深く読み込んで生徒たちに解説する過程で、文体というものも少しわかってきたのだ。今でも特に印象に残っているのは、レイモンド・カーヴァーとジョン・アップダイクの文体だ。カーヴァーの短編もアップダイクの短編も、何回読み返してもいつも新しい発見が待っていて、文学性の高い作品でありながら、文体はかなり違う。

例えば、カーヴァーの “Where I'm Calling From” という短編には、次のパラグラフがある。

 

  For New Year's Eve dinner Frank Martin serves steak and baked potato. A green salad. My appetite's coming back. I eat the salad. I clean up everything on my plate and I could eat more. I look over at Tiny's plate. Hell, he's hardly touched anything. His steak is just sitting there getting cold. Tiny is not the same old Tiny. The poor bastard had planned to be at home tonight. He'd planned to be in his robe and slippers in front of the TV, holding hands with his wife. Now he's afraid to leave. I can understand. One seizure means you're a candidate for another. Tiny hasn't told any more nutty stories on himself since it happened. He's stayed quiet and kept to himself. Pretty soon I ask him if I can have his steak, and he pushes his plate over to me.

 

このように、語彙が平易で文法が簡単な短いセンテンスは、カーヴァーの文体の特徴だ。彼は余計な形容詞や洒落た表現を意図的に文章から省こうとしていたようだ。I could eat more や just sitting there getting cold など、会話でよく使う言い回しも多いので、個性のない文体にも見える。授業でカーヴァーの短編を取り上げたとき、語彙についての質問はほとんどなかった。このブログの読者たちにも、それぞれのセンテンスの意味を理解するにはほとんど努力が必要はないと思う。しかし、カーヴァーの短編を読んだら、その全体の意味、カーヴァーが伝えようとしていたメッセージが完全に理解できたと自信を持って言えないと思う。私も、授業を準備していたときも、さらに授業中でも、その短編を何回も読み返したが、完全に理解できたとは思っていなかった。


対照的に、アップダイクの文章には凝った語彙や表現が多用されている。例えば、 “Transition” という短編には、次のパラグラフがある。

 

   The routed but raffish army of females still occupied their corner and dim doorways beyond. Our non-passerby hesitated on the corner diagonally opposite, where in daytime a bank reigned amid a busy traffic of supplicants and emissaries only to become at nightfall its own sealed mausoleum. He saw the prettiest of the girls, her white face a luminous child's beneath its clownish dabs of rouge and green, approached by an evidently self-esteeming young man, a rising insurance agent or racketeer, whose flared trouser-legs protruded beneath a light-colored topcoat, correctly short. He talked to the girl earnestly; she listened; she looked diagonally upward as if to estimate something in the aspiring architecture above her; she shook her head; he repeated his importunity, bending forward engagingly; she backed away; he smartly turned and walked off.

 

私が教えた社会人たちは、予習のとき、 routed や raffish、 supplicants や importunity など、このパラグラフだけで多数の単語を辞書で調べる必要があった。そして、 a bank reigned や self-esteeming young man、correctly short や aspiring architecture など、アップダイクが創ったコロケーションも多かったので、短編の一ページだけの解釈には一時間以上を費やしたこともあったと記憶する。でも個別の言葉や表現の意味を解釈したら、短編全体の意味は生徒たちにも私にもだいたい理解できたと思う。文体は難しかったが、ストーリーは別にそうではなかったのだ。カーヴァーとの面白い対照だった。

今月からは、大学の一年生向けに Reading John Updike という授業を受け持つようになった。取り上げる予定の短編 “The Christian Roommates” は約10,000ワードにも及ぶアップダイクらしい濃い文体なので、今学期中に読み通せるかどうか不安でもある。しかし、先日、第一回目の授業では学生たちが興味を示してくれたので、楽しみにもしている。

この授業の計画をオゼキさんに言うと、ブックオフでアップダイクの和訳本を探しに行ったが見つからなかったそうだ。それはよかったかもしれない。私は以前に、村上春樹によるカーヴァーの和訳を読んでその素晴らしさを感動したことがあるが、どんなに優れた翻訳者でもアップダイクの文体の素晴らしさを他の言語に再現するのは無理に近いと思う。

沈黙の言い訳

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くもの舌 (言葉について気が付いたこと、考えたこと)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2010-10-2 11:40

 

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言葉の忘却

カテゴリ : 
くもの舌 (言葉について気が付いたこと、考えたこと)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2010-8-17 21:00

6月に、香川県立観音寺第一高等学校で講義をした。簡単な自己紹介の後、次のような質問を生徒たちに出した。

 

日本語で tazuneta (訪ねた)の u と tasuketa (助けた)の u は同じ音ですか。

 

以前に、同様の質問を日本人にしたことがなかったので、どういう答えが返ってくるか見当もつかなかった。「はい、同じ音です」という返事を期待していたが、「もちろん違う音だよ」と言われるかも知れない。「違う音」が答えだったら、その後の講義がパーになるので、少し怯えていた。

 

私が「同じ音」という答えを期待していたことは一目瞭然だったようで、一部の生徒は「違う音だと思う」と答えたが、二つに u  がどう違うかうまく説明できなかった。多くはやはり「同じ音だよ」と答えてくれたので、その後の講義を無事に続けられた。

 

音波ではっきり見える、有声母音と無声母音の違い

なぜこの質問をしたかと言うと、27年前、私が初めて日本語を勉強を始めたころに tazuneta の u と tasuketa の u はまったく違うように聞こえたからだ。あるいは、私の耳には tasuketa に u すらなくて、 tasketa のように聞こえていたといえる。日本人は z と n という有声の子音の間に u を発音するときに声帯を震わせて有声の母音にするが、 s と k という無声の子音の間では u を無声にする傾向が強い。英語には無声の母音がほとんどないので、私の英語耳には tasuketa の無声 u が聞こえなかったのだ。u が有声になるか無声になるかは、その前後の音から予想できる、そして有声無声の違いによって言葉の意味が変わらないので、日本を母語とする人はその違いを意識しないはずだと思っていたのだが、観音寺第一高等学校に行くまで、実際に日本人に確認したことがなかった。

 

講義に来てくれた生徒たちの多くは15、16歳ぐらいだったろう。私がその二つの u  の違いを説明したら、だいたい信じてくれたと思うが、まだ半信半疑の人もいたようだ。私もそのぐらいの年齢で、「同じに聞こえるが実際に違う音」を母語の英語で知ってびっくりしたことがある。これは英語圏では言語学入門コースでよく取り上げられる例だが、 top  の t  と stop の t が違うのだ。英語を母語とする人が top を発音するときに、 t  の後に空気をプーッと吹き出すのに対して、 stop の t  の後にそのプーッはない。 口の前に手を当てるだけでわかるにもかかわらず、私を含み多くの英語圏の人々は指摘されるまでは気が付かない。tazuneta と tasuketa の u と同じように、これも前後の音から予測できる、有意ではない違いなので、英語の話者はふつう意識しないのである。

 

我々が外国語を学ぶときに、母語にはない音、単語、文法などを覚えることに必死になる。しかし、言語の習得には忘却も必要だ。私は日本語を学び始めたときに tazuneta と tasuketa の u の違いを強く意識していたが、日本語が上達するにつれてその違いをだんだん忘れた。その違いを忘れたからこそ日本語が少し上達した、とも言える。以前、ある日本人に「外国人が party という言葉を言うときに『パーティー』と聞こえる場合もあれば『パーティ』と聞こえる場合もありますが、どちらが正しいですか」と聞かれたことがある。英語には長母音(「ティー」の ii)と短母音(「ティ」の i)の間には有意的な違いがないから、その質問に戸惑った。英語が上手な日本人なら party の最後の母音が長くなったり短くなったりすることを意識しなくなるのだろう。英語を使う時に日本語にある違いを忘れる必要があるのだ。

 

言葉の面白さは様々なところにある。単語の多様な意味にもあるし、文法の複雑な構造にもある。そのなかで、毎日使っている母語に気が付かない音があり、そして雑音としてしか聞こえないはずの外国語にはすぐ気が付く音があることが特に面白いのではないだろうか。

 

四国での講義は「言葉ってどこが面白いの?」がテーマだった。また今度、その講義で取り上げた言葉の面白さを一つ二つここで紹介したい。

 


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