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コツの不在

カテゴリ : 
くもの舌 (言葉について気が付いたこと、考えたこと)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2009-9-2 19:20
週末に関西に行って来た。若手生物学者たちの合宿で「科学英語のコツ」について話すためだった。科学研究でキャリアを築こうとする人にとっては、英語で論文を書けるかどうかが死活問題なので、私のワークショップが日曜日の午前9時から始まったにもかかわらず、60人ぐらいが参加してくれた。

東京大学関係の出版物とウェブサイトで、私は数年前、「科学英語を考える」というシリーズ名で、当時、熱中していた冠詞の意味や可算・不可算名詞の使い分けなどを取り上げた。たまたまそれを見た大学院生たちからの招待で、土曜日から山中の「神戸セミナーハウス」に行くことになったのだ。最初は、「科学英語を考える」の連載と同じように、日本人にとっての文法関連難題だけについて話すつもりだった。しかし、私はこの1、2年、「間違いを直す」という教授法について疑問を持つようになった。間違いが指摘された学生たちがそのためにミスを犯さないようになるかは依然として不明である。それに、私自身、5年ぐらい前から本格的に日本語で執筆するようになって、日本語での文章力や執筆スピードが上がっているが、研究社の編集者たちなどにいろいろ修正してもらって仮に「は」と「が」の使い分けが上手になっていたとしても、それが理由ではない。単に日本語でたくさん書いているからにすぎないと思う。

「たくさん英語で書きなさい」では「コツ」にはならないので、今回のワークショップでは初めてのことを試してみた。参加者たちの宿題に見られるいくつかの共通の問題(不適切な単語の選択、数の不一致、冠詞の抜けなど)を簡単に説明してから、全員に10行ぐらい、ある院生が書いた文章を配って、2〜3人のグループでその文章の改善できるところについて話し合うよう頼んだのだ。約20分後、それぞれのグループからコメントを求めたら、なかなかいい提案ばかりだった。前日、夜遅くまで懇親会を楽しんでいた若者たちも、そのディスカッションに元気に参加してくれた。

私が日本語で書く文章には専門的な内容がないので、普通のネイティブ・チェックで充分だ。しかし科学の最先端で研究している人にとっては、自分が書いた論文などを完全にチェックできるのは同じ分野の専門家にかぎる場合がほとんどだ。もちろん、ジャーナルに提出する前に英語力の高い人が原稿を校正すべきだが、その前の段階で、特に内容や論理の確認では日本人専門家同士の話し合いだけで内容も英語もかなり改善できるのではないかと思う。今回のワークショップの最後に、ネイティブ・チェック依存から脱出して、「小グループでの相互添削会」のようなものを研究室内などで定期的に開いたらどうでしょうか、と提案したのである。これも「コツ」にならないが、これから「添削会」を実施する若手科学者たちの英文執筆力が少しでも上がったら嬉しく思う。

私は土曜日の夜から歯が急に痛くなっていたので、楽しみにしていた東北大学の大隅典子先生のセッションに出席しないで、私のワークショップが終わってからすぐタクシーと電車で大阪まで急いだ。休日にも緊急歯科診療を提供している大阪府歯科医師会にここで深く感謝申し上げたい。

読者から貴重なメールをいただいた。
2009-6-24に投稿された「素朴な疑問」についての感想を述べさせていただきます。

ご指摘のような,英語教育論の論者の間で「憎悪」にも似た争いが起きる真の理由は,英語教育論を専門としていない私には,よく分かりません。

ただ,ご指摘のような事実があるのだとすれば,日本における英語教育論が,「科学」の域には達していないということの証左であろうとは考えられます。

各論者は,自己の教育論について,それぞれの教育における成功体験の分析などを通じて,ある種の「信念」としての正しさに自信を持ってはいるのだと思います。ただし,彼らは,科学的な結論として耐えうるだけの正しさ(特定の条件下における正確な教育効果の程度)を示すまでには至っていないのではないでしょうか。

「信念」は,複数存在していても何ら問題はないですし,その方が,むしろ自然だと思います。ただし,複数の信念は(例えは良くないですが宗教がそうであるように),互いにぶつかり合うものだと思います。そういうことなのではないでしょうか。
確かに、英語教育に関する論争は、宗教間のぶつかり合いには似ていないでもない。なお、一部の英語教育者は科学的な検証に基づいて論争していると主張するが、科学に基づいて宗教を展開していると主張する宗教家もいる。でも、英語教育は果たして宗教だろうか。

訳の質

カテゴリ : 
くもの舌 (言葉について気が付いたこと、考えたこと)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2009-8-3 21:40
先週、出張で札幌に行って来た。私は日本在住26年になるが、北海道は初めてだった。九州もまだ。旅行は苦手だ。

出張の目的は筑波大学と北海道大学が共催していた国際シンポジウムに参加することだった。テーマは「高等教育におけるプロフェッショナル・ディベロップメント」なので普通は「ことばのくも」で取り上げないものだが、言葉について思いついたことが一つあったのでそれを紹介する。

このシンポジウムには日本の他、中国、韓国、米国などの大学関係者もいたので、発表はぜんぶ英語で行っていた。ただ、出席者の大半は英語などを専門としない日本人だったので、3人の通訳者による同時通訳が提供されていた。日本語または英語が分からない人は、無線ヘッドセットで通訳が聞こえるという仕組みだった。私は通訳が必要なかったので、ヘッドセットを使わなかった。

翻訳の場合は、訳の質を評価するのに主に二つの方法がある。一つは、元の文章とその訳文を比較して、意味が充分に伝えられているか、間違った訳や抜けているところがあるかを検討することだ。その方法では、誠実な直訳が高い評価を受ける傾向がある。もう一つは、原文を見ないで、訳文だけを読むことだ。その方法では、両言語の対応よりも翻訳の読みやすさ、表現の自然さなどが高く評価されがちだ。(もちろん、両方の方法を同時に応用すべきだが、原文への誠実さと訳文の自然さを同時に実現するのは不可能な場合が多いので、どうしても片方へウェイトを置くことになる。)

しかし、同時通訳の場合は、最初の方法、すなわち発表者が口にする言葉が数秒後、通訳者が口にする言葉に漏れなく忠実に再現されているかを検討するのは無意味に近い。特に日本語と英語の場合は、センテンスの構造がだいぶ違うので、意味が実用的なレベルだけで伝えられているか、すなわちコミュニケーションが成立しているかにウェイトを置くべきだ。

北大でのシンポジウムについては、私は通訳をいっさい聞かなかったにも拘わらず、その質が高かったと断言できる。今まで出席した国際会議では、通訳を通して行った質疑は無意味に近いことが多かった。聴衆からの(例えば、日本語での)質問は発表者が(例えば、英語で)言っていたことと大幅にずれていて、そして発表者の答えがまたその質問にまったく答えにならなかったことが多い。しかし今回はそのようなずれはなかった。ディスカッションは片方が日本語で、また片方が英語で行っても、情報伝達はスムーズに成立していた。明らかに3人の通訳者が屈指のプロだった。

在道は短かったが、仕事が終わってから週末に、札幌市内の散策や小樽への遠足ができた。日曜日の夜に横浜の自宅に戻った。北海道にはまた行ってもいい。
清水由美さんの『辞書のすきま すきまの言葉』は来月の27日発売予定。私は監修として(またキャラとして)この本に少し関わっているのだが、その前書きに書いたように、その面白さは清水さんのお陰だ。「ことばのくも」の読者の皆さんにもご興味を持っていただけるような内容なので、是非読んでみてください。



読者から貴重なコメントをいただいた。
素朴な疑問」に対する私の考えですが、英語教育の学者というのが関係しているかは定かではありませんが、日本の大学教授という立場の人の中には、やはり、「自分が日本の何々を背負っているのだ。」という(今回の場合は「英語教育」)あまり適切でない方向に向けられた自尊心や、うぬぼれというのが絶対あると思います。

または、どんなにレベルの高い教育者であっても、異常なほどの嫉妬心を持つ人というのはかなりいるのではないでしょうか。高い教育レベル=高い人格というのは当てはまらないと思います。

私の経験からすれば、どの職場でも、人はいろいろなことに嫉妬を持つと思います。以前は私も何でだろうと葛藤がありましたが、それは全く驚くようなことではなく、世の中でのあたりまえの出来事だと最近はとくに思います。
確かに、英語教育がこれほど注目されている国では、英語教育者が国の行方について過剰なほど責任感を持つことは不思議ではない。それと、人間固有の嫉妬心を考えると、私が目撃した険悪な感情はかえってごく自然かもしれない。それでも、英語教育界にはなんらかの特別な事情があるのではないかとも思えてならない。引き続き読者の皆様のお知恵を乞う。

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