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くもの舌 (言葉について気が付いたこと、考えたこと)カテゴリのエントリ

インドのゴア州にあるマルガオ(丸顔ではなく Margao)という町に着いてから四日目となった。一日目はホテルでの休養と近辺への散歩で終わったが、次の日からはC大学に行って、そのライティング・センターをベースに学生や教員と交流している。C大学は教員約55人と学生約1,300人を擁し、教養教育を重視する、小さな私立大学だ。在学生のほとんどは地元出身だが、最近は他州でも積極的にリクルートし始めたそうだ。学生たちも大学そのものも活発で元気だという印象を受ける。

インドに来る前に学ぼうとして結局学べなかったデーバナーガリー文字は、幸い街の看板や商品のラベルなどにはそれほど使われていないので、読むことで不自由を感じていないが、話し言葉ではコミュニケーションがスムーズにいっているとは言えない。もちろん、現地の人たちがコンカニ語やヒンディー語をしゃべったら私は何もわからないが、英語での会話でも聞き取れないことが少なくない。私が Excuse me? と聞き返し、2、3回繰り返してもらっても理解できないことがある。ホテルの従業員の英語は特に聞き取りにくいが、流暢に英語が話せる大学の教員や学生たちの英語でも時々部分的にしかわからないことがある。

それでも意思疎通が大体できていると思う。お互いの顔が見えて、シチュエーションからお互いの立場やニーズを推測できる場合は、一部の単語やフレーズが通じなくてもお互いに伝えたいメッセージが伝わる。

私はもっと注意深くインド人たちの英語を記録したいのだが、会話の内容ばかり考えているので、個別の単語や表現を聞き流してしまう。インド英語と英米英語との間に、イントネーションだけではなく語彙や文法の違いもあるはずだが、自分が会話に参加しているときにその違いをなかなかピックアップできない。その反面、文脈から言葉を切り離せるときにその違いがはっきり意識できる。例えば、インドの英字新聞を読むとインド特有の単語がすぐ目に付く。その例を今後紹介したいと思うが、とりあえず、会話でのコミュニケーションを妨げた言葉を一つ紹介する。それは p だった。p という文字。

私が泊まっているホテルにはWiFiでインターネットに接続できるが、ホテルが負担する接続料金が高いからか、客に配布されているパスワードを2時間しか使えない。期限が過ぎると、フロントに電話して新しいパスワードを聞かなければならない。パスワードの形式は m4rwx8sv や t7hi3stv など、文字と数字のみで構成されているので問題なく伝えられるはずだ。

しかし、一昨日、電話で聞いていたパスワードをログインのウェブページに入力したら Access denied というメッセージが返ってきた。またフロントに電話してもう一度パスワードを読み上げてもらった。再入力してみたが、やはりだめだった。またフロントに電話したら、今回は b だと思い込んでいた文字が 「p as in Pakistan」だと説明してくれた。私がずっと聞き間違っていたのだ。

この聞き間違いは、電話を通して話していたから起こったのではないと思う。アメリカ人がインド人の p を b として聞くにはそれなりのわけがあるはずだ。インドには多数の言語があるが、その多くには英語や日本語のように閉鎖音が2種類(例えば有声の b, d, g と無声の p, t, k)だけではなく、3種類から4種類あるそうだ。多くのゴア人が母語として話すコンカニ語には4種類の閉鎖音がある。そのため、無気音の p と b の他に有気音の ph と bh もある。2種類しか区別できない私は、おそらくフロントの人の p (または ph) を b と聞き間違ったのだろう。なお、その p はランダムなパスワードの一文字でしかなかったので、文脈から推測できるはずはなかった。

それ以来、WiFiパスワードをフロントで紙に書いてもらっている。

本を炊いて

カテゴリ : 
くもの舌 (言葉について気が付いたこと、考えたこと)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2012-4-3 19:50
私は一年近くこのブログを更新していないが、言葉は絶え間なく更新している。
 
言葉というものは個人のものなのか、特定集団(社会)のものなか、それとも人間という動物が全員共有して、それで他の動物と区別されているものなのか議論が尽きないが、私は相変わらず自己中心的な個人なので、今日は個人としての言葉を考える。
 
私個人にとっては、この一年間でもっとも印象深い言葉は「放射線」でも「絆」でも「なでしこジャパン」でもなく、「自炊」だ。この印象的な「自炊」はもちろん、「cooking food for oneself; 《英》self-catering」(新和英大辞典の紙版、2003年)ではなく、「taking a book apart and scanning the pages so that one can read the book on an e-reader; scanning a book into an e-book format [digitizing a book] for one's own use.」(同辞典のオンライン版)という新しい意味なのだ。この長い説明訳で分るように、「書籍を裁断機でばらばらにし、1 ページずつスキャナーで読み込み、デジタルデータに変換すること」という意味を英語で表すには「自炊」のようにコンパクトで面白い言葉がまだない。
 
私が始めて「自炊」の新しい語義を知ったのは確か一昨年ぐらいで、研究社の編集者であるMさんとの雑談の時だったと記憶しているが、その衝撃を感じ始めたのは昨年3月下旬、震災や節電の影がまだ東京を暗く覆っていたころだ。ある日の夕方、山手線からたまたま見た「本→電子書籍」と書いている新しい看板が衝撃の始まりだった。その駅で降りる予定はなかったが、思わずカバンをラックから下ろして電車を出た。看板の店が入っている雑居ビルに行ってみたが、まだ営業を始めていなかった。ドアの張り紙によると、震災の影響で機材の配達が遅れ、4月中旬ごろに開店が延びていたのだ。
 
結局、その店に初めて行ったのは5月に入ってからであった。「1 ページずつスキャナーで読み込み、デジタルデータに変換すること」がどういうことかよく分からなかったので、事前に店に電話して、右開きの横文字の本にも対応するかを聞いてみた。大丈夫だと言われたので、その日、仕事が終わってから、捨ててもいいと思っていた本2、3冊を店に持ちこんで「自炊」してみた。結果に満足したので、秋ごろまで、週1、2回ぐらい、10〜15冊ずつをトートバッグに入れてその店に通うようになった。夏が進むに従って、本棚が少しずつ空くようになった。
 
最近のスキャナーでは「自炊」がいかにも簡単で速いというのが最初の衝撃だった。250ページの文庫本なら、店員に背表紙を裁断機で取ってもらってから、自分で数回に分けてばらばらになったページをスキャナーに通すだけで、5分も経たないうちに、その本が丸ごと収録された50メガバイトぐらいのPDFファイルが出来上がるのだ。残った紙はそのまま資源ごみに出すが、電子ファイルはパソコンでもタブレットでも読めるので、本が無くなった感覚はない。逆に、そのファイルを複数のところでパックアップできるので、紙よりも大切に保存している。
 
次の衝撃が襲ってきたのは、実際に自炊した本をタブレットで読み始めたときだった。紙よりも読みやすかったのだ。ページが平らで、「のど」(gutter)と呼ばれる綴じ目による曲線がなく、目がなめらかに行から行へ移る。さらに、文字を拡大できるので、特に文庫本など小型本は紙より文字がはっきり読める。私は子供のときから本をたくさん読んできたが、この数年間、老眼の影響や仕事の多忙ゆえに本を読む時間が確かに減っていた。しかし、自炊した本をタブレットに入れるようになってから、さまざまな本をまた愛読するようになった。(今没頭しているのは Ian Frazier の Travels in Siberia だ。出版当時の2010年に買っていたが、自炊するまでは読まなかった。)私は自宅と職場を合わせて数千冊の本を持っているが、辞書など、「読む」ではなく「参照する」本以外は一刻も早く全冊自炊したいと思う。
 
最後の衝撃は嬉しいことではない。PDFファイルは汎用のフォーマットであり、著作権上は禁じられていても、技術的にコピーは容易である。タブレットはまだ高いのだが、これから安くなるにつれて若者の間でも広く普及すれば、紙の本を買わないで、他の人がスキャンした本をただで読むケースが多くなるかもしれない。そのファイルの入手先は友人もあるだろうが、交換ソフトや海外の無法ダウンロードサイトもありうる。本の読者が本を買わないようになったら、著者や出版社の収入が減って、レコード業界が経験したような淘汰を出版業も避けられなくなるだろう。
 
現在、山手線から見える店にはもう通っていない。最初は職場で、その後は自宅で自炊用のスキャナーを導入したからだ。職場のコピー機室には業務用の電動裁断機があるから、それを使っている。厚い本でも一発で背表紙がとれる。自宅には手動の機械しかないので、本をスキャンする前にカッターナイフで厚さ一センチぐらいの束に分けなければならない。大切にしてきた本にナイフを入れるのは残酷な行為と感じないわけではないが、毎週末に数十冊を断頭してスキャンしているのだ。数えていないが、たぶん500冊以上をすでに電子化している。1万円で買える、手のひらに入るようなハードディスクに1万冊も収納できると思ったら、私の今までの人生で紙の本はどんなウェートを持ってきたか、そのウェートがどんなに軽くなっているか、新しい意味での「自炊」を痛感しているこのごろである。

くもの多弁(変更)

カテゴリ : 
くもの舌 (言葉について気が付いたこと、考えたこと)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2011-3-14 20:46

3月18日の討議力シンポジウムは、地震の影響で中止になった。

くもの多弁

カテゴリ : 
くもの舌 (言葉について気が付いたこと、考えたこと)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2011-3-8 13:20

日本の大学人にとって、3月はシンポジウムが花咲く季節でもあるようだ。私は今週と来週、三ヶ所で話すことになった。

 

3月9日(水曜日)
2011年日本ライティング・センター研究会
東京・神田外語学院
リンク

3月12日(土曜日)
JACET関西支部第3回講演会
関西学院大学(大阪梅田キャンパス)
リンク

3月18日(金曜日) 中止
討議力シンポジウム「対話のなかの学び」
東京大学教養学部駒場キャンパス

 

ご興味がありましたらどうぞお越しください。

ご無沙汰してすみません。

これからはもっと頻繁に書くつもりだが、今日はとりあえず、昨年末から紹介する予定であった本を紹介する。それは清水由美さんの『日本人の日本語知らず。』(世界文化社)。

清水さんに初めてお会いしたのは、2003年の『研究社 新和英大辞典第5版』の出版記念パーティーだった。二人ともその辞書の編集に参加していたが、その前に顔を合わせる機会はなかった。その後、清水さんの『辞書のすきま、すきまの言葉』(研究社)で一緒に仕事をするチャンスに恵まれて、清水さんの言葉への観察力に感銘を受けた。

今回の『日本人の日本語知らず。』には私はノータッチだが、共感した内容が多く含まれる。例えば、「ありますですかそれともありますですか?」というチャプターには、私がこのブログと『英語のあや』でも言及したテーマが取り上げられる。しかし、清水さんは私より何倍も面白い文体で書くので、私の拙文よりも清水さんの本のようが読む価値がある。それで強く推薦する。
 


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