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新東京風景

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青年の蔵 (『英語青年』の過去記事)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2010-8-20 21:20

65年前に発行された、戦後最初の『英語青年』には、英学関係蔵書が空襲で多量焼却されたというニュースから玉音放送の英訳まで、当時の世相がうかがえる記事が多数ある。「和文英訳練習」の課題も、戦争中の「正直のところ煙草はどこがうまいかといはれると困る。だが疲れた時の一服、食後の一服には何ともいはれない味がある。」のよう文から一気に「戦後われらが歩まなければならない道は荊棘の道といはれてゐる。苦難のつぐ苦難の山を越えての羊腸の道であることは、国民全部が覚悟してゐるところである。」のように変わっていた。

 

次のような記事もあった。

新東京風景

 焼跡のところどころに建つたバラツクの焼けトタンに残暑が照りつける。見晴らしがよくなつて、小石川の高台から本郷の東京帝大がはつきり真近かに見える。黒焦げの樹木が Waste Land といふ感を深くする。之だけは秋の気配濃い雲の切れ飛んだ空に、色々の形をしたアメリカ機が飛び交つてゐる。ローマ字で書くことすら問題となつた省線の駅に—Stationと貼り出され、 Entrance, Way Out と書かれてゐる。交番は—Police Box と看板をかけ、警察は—Police Station といふ札をぶらさげてゐる。公共団体や商店は英語の看板を揚げよといふラヂオ放送があつた。郵便局へ行けば Post Office と書いてあり、窓口では Telephone, Telegram, Post と書いてある。料理店はいち早く Restaurant と書き出した。自転車の小僧が日の丸のボール紙を前につけてゐると思へば Japanese Government と書いてある。

九月九日 S生

将来の英語

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青年の蔵 (『英語青年』の過去記事)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2010-5-6 21:50

最近、戦争中の『英語青年』で当時の事情がうかがえる記事(1)から引用しているが、戦況が悪化しても、この雑誌には英文学や英語学に関するノンポリ的な記事も載せられていた。次は、1944年各号から、記事のタイトル例。

 

「Humour 論」

「柳田国男作『遠野物語』英訳」

「Tenses of the Subjunctive」

「辞書と文法」

「恩師村井[知至]先生の御生涯」

 

しかし、「敵国」だったイギリスとアメリカを様々な立場から批判する記事も少なくない。例えば、

 

「法制に現はれた英国民性」(「英人は偽善的な国民だといはれる。偽善的であるといふことは、言明(道徳的な)と内心が違つてゐることである。」)

 

「アメリカ人の性格」(「アメリカ人といふと、直ちに明朗で健康な人間を想像しがちであるが、それは彼等の半面に過ぎず、彼等にはあくまでも神経が太く、また残虐性に富む半面のあることを見逃してはならない。」)

 

先見的な論述もある。次は、大塚高信による「将来の英語」(1944年9月1日号)の結論からの抜粋。

 

政治的商業的軍事的にみて、英語を話す民族が今後どうなるかは、現在行はれて居る戦争が終結しなくては解らない。しかし英語を話す民族を地球上より抹殺しようとするのが吾々枢軸国家の目的ではなくて、過去及び現在の彼等の不法を懲らし、反八紘一宇の精神を破砕して、人類の共存共栄の理想を実現しようとするのが吾々の目的であるから、枢軸国家の勝利となつて戦争が終結しても、英語を話す民族が亡びて了ふといふことは考へられない。然らば生き残るべき英語はどんな英語であろうか。数の上から言へばアメリカ英語である。殊に今度の戦争で所謂反枢軸国家を支配して居るのがアメリカであるから、アメリカ英語が言語的にも支配的勢力を有つことになるであらう。

 

英語報国

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青年の蔵 (『英語青年』の過去記事)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2010-4-13 20:40

第二次世界大戦が末期に近づいたころの『英語青年』が手に入った。1943年12月1日号には、東京神田の「一つ橋講堂」で行った語学教育研究大会の報告があった。以下はその抜粋である:


午後は一時半から鈴木文史郎氏の講演があつた。


新聞人としての立場から氏もまた外国語、そして日本人にとつては今日は不倶戴天の敵国の言葉ではあるが、それにも拘らず英語の学習が如何に必要であるかを様々な事例を挙げて話された。殊に死力を尽して戦つてゐる今日、所謂宣伝戦なるものが一般普通人の想像し得ない程恐るべき偉力を発揮するものであることを先の大戦の事例を引いて説き、その宣伝戦に敵国の言葉が味方にとつて如何に強力なる武器であるか、殊にラヂオの発達した今日、この敵国の言葉が先の大戦の場合の何倍、何十倍の偉力を発揮するか測り知れないものがある、と云はれる。第一流の新聞人からかゝる言葉を直接聞いて聴衆の大半を成す英語教師は益々英語報国の念に徹することを心に誓つたことと思ふ。


これを読んで二つのことを考えた。

一つは、1970年代前半に私が米国の公立高校でロシア語を勉強できたのは、冷戦中のためにロシア語が「敵国の言葉」とみなされていたからということだ。授業や教科書そのものには政治的な色はほとんどなかったのだが、そもそもその授業が開講されていたのは、「敵国の言葉」の勉強が「報国」に貢献する、という考え方が地元の教育委員会などにあったからに違いない。

今のアメリカでは、ロシアが「敵国」でなくなったからか、ロシア語の学習状況は
低迷している。中国語や日本語を勉強している大学生が増えているが、それは中国の経済発展、日本のオタク文化の人気によると思う。目下、「報国」の精神が外国語学習に影響を与えているケースは、2001 年同時多発テロ以降のアラビア語の急激な人気上昇に見られるのみだろう。

もう一つは、「発信型英語教育」という概念が決して新しいものではないことだ。今の日本では、大学生にブログなどを英語で書かせる授業が流行っているのだが、1943年にも、ラジオという最新コミュニケーション技術を使って英語でプロパガンダを発信することが英語教育の目的の一つだったようだ。英語には The more things change, the more they stay the same. という諺があるが、まさにそのとおりだ。

「自爆」の英訳

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青年の蔵 (『英語青年』の過去記事)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2010-3-24 18:30
『英語青年』1942年12月15日号の「英語クラブ」から。
自爆

「自爆」といふのを英語で何と言ふかと時々学生に訊かれる。しかし、かういふ崇高な敢闘精神も行為も外国にはないのだから、それに対する英語のないことは勿論だが、それを英訳したものはどうなつてゐるかと気をつけて見ると、一寸眼についたのに次のやうなのがある。
 Japan Times & Advertiser では嘗て Solomon 海戦か何かの戦果報告の中で、「自爆何機」といふところを Body crushed と書いて次に数字を挙げてゐたが、同日の社説に “...planes deliberately dashed against the enemy” とし、以後は何時もこの言ひ方を用ひてゐるやうだ。(米人に訊いて見たら、前者は一寸はつきりせぬが、後者なら分ると言つてゐた。)ところで、 XXth Century  十月号を見ると、p. 267 に “Torpedo planes for attacking naval units arrived on the morning of August 8 and partly through voluntary self-sacrifice, sank 4 cruisers,...” と出てゐる。 AMIKO
今の和英辞書では、「自爆」は blowing oneself up; a suicide bombing; killing oneself in an explosion. (KOD) などとなっている.これは昨今のテロなどに関してはぴったりだが、第二次世界大戦における日本軍の行為を指すには、a kamikaze attack のほうが一般的だ。ただ、Oxford English Dictionary によると、この意味の kamikaze が初めて英語で使われたのは、上記記事の三年後、1945年だそうなので、やはり「それに対する英語のないこと」が正しかったのだろう。

日米と外国語

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青年の蔵 (『英語青年』の過去記事)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2010-3-22 19:40
また戦争中の『英語青年』から。
日米と外国語

日米抑留外交官交換に伴つて先般天津発帰国した一英字新聞社長 Charles Fox は出発前天津広播電台から放送した、其一節にいふ、『日本人中には英語及び英文をよく解する者多数ある関係上米英人をよく知り且つ米英両国の国情もよく知り得るに反し、英米人は日本語に関する限り全く無知と云ひ得る、真に日本人を理解し日本の実情を認識し得る者は僅々数人に過ぎない。某政治家曰く「他国を破らんと欲せば宜しくその国の国語を学ぶべし」と。これは通商その他競争関係においても同様である。相互の理解を欠くは紛争の本であり、一度紛争を生ずれば相手方を完全に理解する方が必ず有利の立場となる。日本の多数の政治家が米国の実情を熟知するに反し米国の政治家に日本の実情を認識する者少なきため現在の如き戦争の勃発を見たのであらう。』(1942年12月1日号)

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