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将来の英語

カテゴリ : 
青年の蔵 (『英語青年』の過去記事)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2010-5-6 21:50

最近、戦争中の『英語青年』で当時の事情がうかがえる記事(1)から引用しているが、戦況が悪化しても、この雑誌には英文学や英語学に関するノンポリ的な記事も載せられていた。次は、1944年各号から、記事のタイトル例。

 

「Humour 論」

「柳田国男作『遠野物語』英訳」

「Tenses of the Subjunctive」

「辞書と文法」

「恩師村井[知至]先生の御生涯」

 

しかし、「敵国」だったイギリスとアメリカを様々な立場から批判する記事も少なくない。例えば、

 

「法制に現はれた英国民性」(「英人は偽善的な国民だといはれる。偽善的であるといふことは、言明(道徳的な)と内心が違つてゐることである。」)

 

「アメリカ人の性格」(「アメリカ人といふと、直ちに明朗で健康な人間を想像しがちであるが、それは彼等の半面に過ぎず、彼等にはあくまでも神経が太く、また残虐性に富む半面のあることを見逃してはならない。」)

 

先見的な論述もある。次は、大塚高信による「将来の英語」(1944年9月1日号)の結論からの抜粋。

 

政治的商業的軍事的にみて、英語を話す民族が今後どうなるかは、現在行はれて居る戦争が終結しなくては解らない。しかし英語を話す民族を地球上より抹殺しようとするのが吾々枢軸国家の目的ではなくて、過去及び現在の彼等の不法を懲らし、反八紘一宇の精神を破砕して、人類の共存共栄の理想を実現しようとするのが吾々の目的であるから、枢軸国家の勝利となつて戦争が終結しても、英語を話す民族が亡びて了ふといふことは考へられない。然らば生き残るべき英語はどんな英語であろうか。数の上から言へばアメリカ英語である。殊に今度の戦争で所謂反枢軸国家を支配して居るのがアメリカであるから、アメリカ英語が言語的にも支配的勢力を有つことになるであらう。

 

言葉の伝染病

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くもの舌 (言葉について気が付いたこと、考えたこと)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2010-4-27 21:10

言葉を病気として考えたら、言語学習がどのように変わるのだろう。

娘たちが3、4歳ぐらいのときに、カリフォルニアに住んでいる、私の姉のところに数日間泊まったことがある。同年齢の従兄弟エリックとよく遊んでいた。娘たちは日本語で、エリックは英語で話していたが、仲良く家の中を走り回ったりかくれんぼしたりしていた。2、3日経ったら、それまで日本語を聞いたことがなかったエリックは、従姉妹が持っているおもちゃを欲しくなったら “Kashite!” と言うようになった。エリックは「貸して」とは日本語だと気が付かなかったようだが、幼稚園児の間で風邪がすぐうつるのと同じように、彼はその言葉に感染したのだ。

横浜・野毛町には、「三陽」というラーメン屋がある。「毛沢東定食」(餃子定食)や「バクダン」(揚げニンニク)などの珍名メニューで地元で少し有名な所でもある。店主は日本人だが、従業員の多くは中国か台湾の出身だ。私は8、9年ぐらい前から月数回のペースで食べに行っているのだが、従業員同士の会話で「言葉の感染症」に気付いたのは最近のことだ。同じものの注文が二つ入ったら「二つ」や「二個」ではなく「ニガ」と言うときがある。本人たちには確認していないが、「ニガ」とは中国語の「二个」(ni ge)に違いない。三陽の日本人従業員同士でも「ニガ」と言っているのだ。同じ職場で働く人たちが同じ「病気」になってしまったようだ。(もちろん、日本国内の店なので、中国人の従業員たちはもっと重く日本語に感染している。)

言語の習得を「教える」や「学ぶ」などのような健全な動詞で描写することが多いが、言葉を病気と同じように人間の意思に関係なく「うつる」ものとして見たら、言語教育はどうなるのだろうか。

「英語報国」の様々

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くもの上 (読者からの投稿)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2010-4-16 20:50

先日の投稿にたいして、このサイトの関係者から次のコメントが来た。

 

外国語学習の裏面史というべきものを非常に興味深く拝読しました。

当時の日本には、純粋に敵を倒すために英語を学んだ人、それを口実にして(実は大好きな)英語を学び続けた人、政治的なものに背を向けて英語学習に逃避した人、などいろいろとあったようで、本音が見えるようで見えず、複雑な気がいたします。

なるほど、現在ではアラビア語学習が盛んになっているという事実は、予想できるとはいえ、やはり衝撃的でもあります。たとえオタク文化であれ、日本語がポジティブな動機で学習者を獲得できるという点には、少しほっとしてしまいます。

 

英語報国

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青年の蔵 (『英語青年』の過去記事)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2010-4-13 20:40

第二次世界大戦が末期に近づいたころの『英語青年』が手に入った。1943年12月1日号には、東京神田の「一つ橋講堂」で行った語学教育研究大会の報告があった。以下はその抜粋である:


午後は一時半から鈴木文史郎氏の講演があつた。


新聞人としての立場から氏もまた外国語、そして日本人にとつては今日は不倶戴天の敵国の言葉ではあるが、それにも拘らず英語の学習が如何に必要であるかを様々な事例を挙げて話された。殊に死力を尽して戦つてゐる今日、所謂宣伝戦なるものが一般普通人の想像し得ない程恐るべき偉力を発揮するものであることを先の大戦の事例を引いて説き、その宣伝戦に敵国の言葉が味方にとつて如何に強力なる武器であるか、殊にラヂオの発達した今日、この敵国の言葉が先の大戦の場合の何倍、何十倍の偉力を発揮するか測り知れないものがある、と云はれる。第一流の新聞人からかゝる言葉を直接聞いて聴衆の大半を成す英語教師は益々英語報国の念に徹することを心に誓つたことと思ふ。


これを読んで二つのことを考えた。

一つは、1970年代前半に私が米国の公立高校でロシア語を勉強できたのは、冷戦中のためにロシア語が「敵国の言葉」とみなされていたからということだ。授業や教科書そのものには政治的な色はほとんどなかったのだが、そもそもその授業が開講されていたのは、「敵国の言葉」の勉強が「報国」に貢献する、という考え方が地元の教育委員会などにあったからに違いない。

今のアメリカでは、ロシアが「敵国」でなくなったからか、ロシア語の学習状況は
低迷している。中国語や日本語を勉強している大学生が増えているが、それは中国の経済発展、日本のオタク文化の人気によると思う。目下、「報国」の精神が外国語学習に影響を与えているケースは、2001 年同時多発テロ以降のアラビア語の急激な人気上昇に見られるのみだろう。

もう一つは、「発信型英語教育」という概念が決して新しいものではないことだ。今の日本では、大学生にブログなどを英語で書かせる授業が流行っているのだが、1943年にも、ラジオという最新コミュニケーション技術を使って英語でプロパガンダを発信することが英語教育の目的の一つだったようだ。英語には The more things change, the more they stay the same. という諺があるが、まさにそのとおりだ。

「自爆」の英訳

カテゴリ : 
青年の蔵 (『英語青年』の過去記事)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2010-3-24 18:30
『英語青年』1942年12月15日号の「英語クラブ」から。
自爆

「自爆」といふのを英語で何と言ふかと時々学生に訊かれる。しかし、かういふ崇高な敢闘精神も行為も外国にはないのだから、それに対する英語のないことは勿論だが、それを英訳したものはどうなつてゐるかと気をつけて見ると、一寸眼についたのに次のやうなのがある。
 Japan Times & Advertiser では嘗て Solomon 海戦か何かの戦果報告の中で、「自爆何機」といふところを Body crushed と書いて次に数字を挙げてゐたが、同日の社説に “...planes deliberately dashed against the enemy” とし、以後は何時もこの言ひ方を用ひてゐるやうだ。(米人に訊いて見たら、前者は一寸はつきりせぬが、後者なら分ると言つてゐた。)ところで、 XXth Century  十月号を見ると、p. 267 に “Torpedo planes for attacking naval units arrived on the morning of August 8 and partly through voluntary self-sacrifice, sank 4 cruisers,...” と出てゐる。 AMIKO
今の和英辞書では、「自爆」は blowing oneself up; a suicide bombing; killing oneself in an explosion. (KOD) などとなっている.これは昨今のテロなどに関してはぴったりだが、第二次世界大戦における日本軍の行為を指すには、a kamikaze attack のほうが一般的だ。ただ、Oxford English Dictionary によると、この意味の kamikaze が初めて英語で使われたのは、上記記事の三年後、1945年だそうなので、やはり「それに対する英語のないこと」が正しかったのだろう。

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