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講義アメリカ文学史(全3巻) 東京大学文学部英文科講義録  渡辺利雄 著

掲載誌:アメリカ太平洋研究 Vol.9 (2009)
筆者:伊藤 章 (北星学園大学教授)



 欲張りな読者が一国の文学史の書物に望むものとは、一体どういうものであろうか。まず、作家と作品を年代順に配列し、解説しただけのものではなく、その国の文学の歴史を、すなわち起源から現在へ至る生成のプロセスを、独自の歴史観のもとに叙述してほしい。そのうえで、ほかの国や地域とは異なる文学的な特徴を提示してもらいたい。文学の歴史のみならず、社会の姿が浮き彫りになるような社会史でもあり、思想の発展の歴史でもあるようなものであってほしい。無論のこと、歴史的、社会史的、思想史的でありながら、それ以上に文学的でもあるようなものであってほしい。作家と作品についての単なる印象や解説を超えた、文学批評を縦横に実践してもらいたいのである。
 読者の望みはつきない。作家の伝記的情報もほしいし、代表作の粗筋もほしい、解説もほしい、作品の価値評価もほしい。作品は作品が生まれた歴史的コンテクストのなかに位置づけてもらいたい。と同時に、永遠の相のもとに論じてほしい。文学の流れを過去から現在まで記述するにとどまらず、主だった文学的伝統と文学運動に言及してもらいたい。時代を超えて作家間に共通するテーマやモチーフ、傾向を拾いあげ、ある作家のある作品が、先行するどの作家のどの作品に影響されているのか、逆に、ある作品がのちの作品にどのような影響を及ぼしたのか、作品間の影響関係にも目を配ってほしい。最終的には、ある作家なり作品なりが文学的伝統のなかでどのような位置を占めるのか、ようするに傑作はどれであり、主要作家は誰なのか、という問題にも勇気をもって踏み込んでもらいたい。そしてなにより、啓蒙的なものであると同時に、読み物として一気に読み通すことができるような、読者を飽きさせない工夫も凝らしてほしい。読者は、学生や一般読者であれ、専門家であれ、面白くてためになるものを望んでいるのである。
 さて、こうした贅沢な望みをほとんどすべて叶えた文学史が、渡辺氏の『講義アメリカ文学史』全3巻である。以下、3巻計1500頁近くある大著執筆の契機と著者の狙いを紹介し、本文学史が類書と異なる点はどこあるのか、どの点で優れているのか、どういう工夫がなされているのか、評者が二度、三度と(飽きもせず)読み通して気づいた点、感心した点、共感した点などを指摘したい。

 本書は、氏が東京大学文学部で約15年間担当した通年の授業、「米文学史概説」の講義ノートに基づいて書き下ろした文学史である。したがって、よくある共同執筆ではなく、ひとりの視点からアメリカ文学全体を眺めた文学史となっている。氏は、本書のもととなった(なんと)1時間40分もあるこの授業を毎年30回近く、3年を周期に、1年目は南北戦争まで、2年目は第2次世界大戦後まで、3年目は1950年代以降というように、繰り返してきたという。氏によれば、「文学者の伝記、作品の表題、粗筋、発表年、文学史上の位置などの基本的な事実とともに、それぞれの文学者、作品の現代的な意義や、魅力を特殊講義のように少し時間をかけて論じる」(I, iii)というのが狙いであった。受講者のなかには、英文学科のアメリカ文学を専攻する学生だけではなく、教職関係の必修科目として他学科の学生も履修していたということなので、すべての学生に満足感を覚えさせる授業にするには、難しい面もあったに違いない。授業を面白くするための工夫のひとつとして、氏は英文の抜粋を読んで、解説するということを毎回試みた。文学の魅力に触れるためには、1頁程度の抜粋でも原文を読んでみるのが、一番の近道であるという氏の常日頃の信念もあってのことである。
 授業におけるこうした狙いと工夫を活かし、実際に講義を受講しているような臨場感を残したまま、専門家の通読にも堪えるように、質量とも充実させたのが今回の書物である。文学研究者なら、いずれは文学史の本を執筆したいと思わないではないだろうが、共同執筆ならまだしも、文学史を(しかもこれほどの大作を)単独で著すという冒険を完遂することができたのは、15年以上も文学史の授業を担当してきたことが直接の契機となっている。それ以上に、アメリカ文学研究者として常に第1線で活躍してきた氏の30有余年に及ぶキャリアの蓄積によるところも大きいだろう。その意味では、氏のアメリカ文学研究の集大成でもあり、総決算でもある。結果的には、斉藤勇『アメリカ文学史』(1941年)、大橋健三郎・斉藤光・大橋吉之輔編『概説アメリカ文学史』(1975年)に続く(いやそれらを凌駕した)、最新の本格的な文学史として出色の仕上がりとなっている。 内容上の特徴として、まず、従来のアメリカ文学史では無視されるか、あまり論じられなかった作家を取りあげている。インディアン捕囚物語のメアリー・ローランドソン(第12章)、18世紀のセンティメンタル小説のウィリアム・ブラウンとスザンナ・ローソン、ハナ・フォスター(第15章)、ケイト・ショパン(第41章)。文学研究の新しい潮流を反映するように、ネイチャー・ライティング(第76章)を取りあげ、先住民とマイノリティ作家も扱う(第81章)。最近のアメリカ文学史やアンソロジーでは黙殺されるか、軽視されている作家も忘れない(第16章「チャールズ・ブロックデン・ブラウン」、第40章「シンクレア・ルイス」)。きちんと文学史的な位置付けと評価を行い、忘却の淵から掬いあげようとする。
 大衆文学やベストセラー作家にも目配りを怠らない。第27章「ハリエット・ビーチャー・ストウ」、第28章「ルイザ・メイ・オールコット」、第36章「ホレイショー・アルジャー」、第86章「ジョン・アーヴィング」。しかもありきたりな読み方はしない。最近の批評動向をしっかり押さえた議論を展開する。たとえば、ストウを論じた章では、女性のほうが「社会的な利害関係に制約されていないだけに、奴隷制度の究極的な悪を批判する視点をもつことができるのではないか。ストウは女性の領域は家庭であるという神話を否定し、女性による社会変革という意味で、フェミニズム思考に先鞭をつけたと評価できるだろう」(I, 404)と結ぶのである。オールコットを論じた章でも、彼女がLittle Womenの光り輝く少女像から想像されるのとは正反対の「影」の部分も見つめた作家でもあったことを明らかにしようとする。そして「従来肯定されてきた、女性の家庭的な面こそ、むしろ、社会が女性に投げかける『影』であり、女性は『仮面』をかぶって生きてきたのではないか」とじつに恐ろしいことをおっしゃり、つづけて「オールコットの生涯、作品は時代に先駆けてそのことを示している」(I, 418)と評価するのである。ストウとオールコットへの最大の讃辞であろう。
 ジャンルも、小説、詩、演劇、その他の散文(日記、歴史書、自伝など)、批評と、アメリカ人の多岐にわたる文学的営為を取りあげようとする。しかも緻密な解釈にもとづき、けっして流行の批評におもねることはしない。研究者であれば、得手不得手があるものなのに、散文が専門のはずの氏は、詩人と劇作家にも立ち向かう。たとえば、第2巻の後のほうに、フロストからスティーヴンス、パウンド、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズと4人の詩人、最後に、オニールからウィリアムズ、ミラーと3人の劇作家を並べる。そして切れ味鋭い、解釈を展開するのである。国民に敬愛されたフロストの暗い影の部分に焦点を当てたフロスト論は秀逸である。散文の専門家で、これほど詩がわかる研究者はちょっといないだろう。いや、研究社の『英米文学辞典』や『20世紀英語文学辞典』で、かなりの数のアメリカ詩人も担当していることから、氏はアメリカ詩の専門家でもあるのだ。劇作家を扱った3章でもそう。それぞれの個性を要領よくコンパクトにまとめる手腕は見事である。ときに、演劇の専門家でも気づかないような鋭いコメントが挿入される。たとえばミラーの章に「哀れな声で泣きながら轟音とともに自爆する虚ろなセールスマンの死」というサブタイトルが付いているが、これは渡辺氏が『セールスマンの死』にT. S. Eliotの“The Hollow Man”のエコーを聞き取っているからだ。この文学的センスに脱帽。  取りあげられた作家の陣容を見て、白人男性作家中心主義が色濃いと批判するのはやさしい。たとえば第2巻、独立した章を与えられている作家26人中、女性はショパンとウォートン、キャザーのわずか3人、比率にして11.5%でしかない。これでは、近年目覚しい、フェミニズム文学批評による女性作家の見直しの成果が活かされていないのではないかと思うが、それを埋め合わせるかのように、ウォートンの章では、一枚岩ではない多様なフェミニズム文学批評の概略を試みるほか、多数のフェミニズム批評家によるウォートン論を紹介する。その上で「20世紀初頭、アメリカでは、創作活動は男性の領域とされ、女性はまだ『自分自身の文学』をもたなかった。そうした時代の女性文学者の先駆者、それが歴史的なウォートンの姿であった」(218)と結ぶのである。同様に、黒人文学への言及が少ないようにみえるかもしれない。しかし、第51章「リチャード・ライト」では、短いけれども要を得た、アメリカにおける黒人文学の歴史を挿入し、その長い豊かな歴史と伝統を紹介してくれる。ただ、ベロー以前のアメリカのユダヤ系作家の前史にあたるものがどこかの章に挿入されていればよかったか。

 本書の構成上の特徴として、大作家でも、ひとりの作家を1回の講義で紹介する、しかもその作家の代表作のうち、ひとつを重点的に解説するということがあげられる。各章の工夫として、すべての章に、内容を的確にまとめたサブタイトルが付いているし、各セクションにも小見出しがついている。たとえば、第8章のエドワード・テイラーを扱った章のサブタイトルには、「20世紀に発見されたピューリタン時代最大の詩人」とあり、各セクションの見出しは、「200年も大学図書館の書庫に眠っていた聖職者の詩の原稿」「正統的なピューリタニズムの教義を守る」「大胆な象徴性ゆえにイギリスの形而上詩人に通じる詩風」「神の存在を身近に感じる顕現の神秘体験」「自らの汚れた存在、罪の重みを告白する」「ヨブの苦難と忍耐を思わせる神との和解、神への感謝」と内容を簡潔に要約したものとなっていて、親切である。
 アメリカ文学史によくあるような、文学運動や思潮傾向、年代によってまとめるという体裁をとらず、主要作家に1章ずつ与えるという作家第1主義はともすれば、作家に序列をつけない悪しき相対主義につながるように思えるが、そうではない。紙数を割かず、さらりと済ます作家もいれば、倍以上の分量を割く作家もいる。ここから、著者なりの評価を読み取ることができる。たとえば第1巻では、キャプテン・ジョン・スミスに7頁しか割かないのに対し、ソローやホーソーン、メルヴィル、ポー、ホイットマンには20頁以上を割いている。これに続くのはフランクリンとディキンソンである。第2巻では、全3巻のなかでも最大の紙数29頁を割いているのはマーク・トウェインであり、つづいてヘンリー・ジェイムズ、フォークナー、ウォートンと続く。現代作家を扱った第3巻はまだ評価が定まっていないということもあって、メイラーからオースターまでほぼ同じ分量が与えられている。それでも、2割程度紙数の多いのは、サリンジャーとカポーティ、マラマッド、ナボコフである。
 作家第1主義だと、重要な文学運動や批評動向の解説が不十分になりそうだと思われるが、そうではない。いくつもの章にうまく織りこもうとする。たとえば、第37章、フランク・ノリスとスティーヴン・クレインのふたりを扱った章。ヨーロッパの自然主義とアメリカの自然主義を比較し、アメリカの自然主義の特徴を浮き彫りにするという作業を前段できっちり行う。そして、次章のドライサーにうまくつなげてゆく。あるいは、20世紀中葉のサザン・ルネッサンスの概説は、第57章のウィリアムズ論と第66章のマッカラーズ論に収められている。ビート・ジェネレーションについては、第79章のケルアック論で言及される。1960年代のカウンターカルチャー運動については、第82章のキージー論のなかで、1970年代から80年代にかけてのミニマリズムの文学傾向については、第87章のカーヴァー論のなかで、というように万事抜かりがない。無い物ねだりをすれば、ストウの章で、あるいは独立した章を立てて、サラ・オーン・ジューエットとメアリー・ウィルキンス・フリーマンに代表されるニューイングランドのローカル・カラー文学について触れて欲しかったと思わないでもない。
 主要作家に独立した1章を与え、各章が読み切りで完結しているので、他の章とうまくつながらないように思えるかもしれないが、そうではない。いつでも他の作家との影響関係に目を配り、個々の作家を論ずるに際し、同時代の作家や資質を共有する作家と比較するのである。そればかりか、アメリカ文学全体を眺め渡して、鳥瞰的な眼差しのもとに文学史的な位置づけを試みようとする。その結果、どんな章においても、それ自体で小さくまとまることがなく、他の章と響きあっている。
 たとえば、第13章でベンジャミン・フランクリンを論じたあと、次の章では、ジョナサン・エドワーズを論じるというように、時代を代表する、ふたりの典型的かつ対照的な人物像が、1回の読みきりではなく、2回連続でバランスよく、つながっている贅沢さ。第39章アンダソンと次のルイスの章もそう。比較することによって、作風の違い、個性の相違を明らかにし、本質を切り取る――「アンダソンのほうは、アメリカ社会の特定の時代、地域の問題を扱っていながら、人間のより普遍的な真実を捉えているように思われ、時代を超えて読み継がれてゆく。その点、ルイスの文学には時代的な制約があることは否定できない」(II, 174)。第43章のキャザー論であれば、同じく中西部を題材にする同時代作家のルイスとの比較からはじまるし、第47章のフォークナー論も、ヘミングウェイと比較することからはじまる。第72章のロスと次のアップダイクの章もそう。「物質的、経済的にある程度豊かな生活が保証されたアメリカの中産階級、小市民の精神的に不毛な生活を題材に、現代アメリカの社会状況」(III, 200)を描いている、ふたりの作家が対比されることで、それぞれの作家の個性がより鮮明に浮かびあがるのである。
 複数の章が有機的に結びつくと、単行本を読んでいるような充実感を生みだす場合もある。たとえば、第20章のエマソンからソロー、ホーソーン、メルヴィル、ポー、ホイットマンへと続く章。もちろん各章それだけで自立した読み物として読むことができるが、これら6章はたがいに越境しあい、木霊を呼び交わし、総体をなしている。第1巻のなかでもとりわけ秀逸な部分かもしれない。同じような統一感が、「失われた世代」を扱った、第45章ヘミングウェイからフィッツジェラルド、フォークナー、ドス・パソスに続く4章にもみられる。単独でも読み応えのある論を展開しているうえに、それが4章も続いて、あたかも1冊の研究書を読んだような充実ぶりである。第70章ベローからマラマッド、ロスのユダヤ系を扱った3章と、ロスの同時代作家のアップダイクを扱った計4章も、連続講義として成功しており、第3巻の白眉である。第80章のヴォネガットからキージー、ヘラーと、60年代の若者に圧倒的に支持された作家を扱った3章も、60年代の時代風潮の適切な解説もあいまって、負けてはいない。この3巻本には一体何十冊の本が詰まっていることか。
 鳥瞰的な眼差しといえば、たとえば、ジョナサン・エドワーズの章。「人間の内に潜む悪の要素にメスを入れるとともに、人間と超越者との関係や、人間の自由意志と宿命の問題などを論じ、〔ブラウンからホーソーン、メルヴィル、ポーを経て、ジェイムズやアダムズ、フォークナー、カポーティ、ピンチョンにつながる〕アメリカ・ロマン主義伝統の始祖ともいうべき存在となった」(I, 156)とアメリカ文学総体を俯瞰した評価をあたえる。あるいは、近年評価が下がるばかりのハウエルズの章。「人生のより微笑ましい側面」のみに目を向けた退屈な文学者ではなかったことを検証したのちに、「彼のこうした社会批判、抗議精神は、このあとHamlin Garland, Stephen Crane, Theodore Dreiser, Sinclair Lewis, John Dos Passos, John Steinbeckなど、社会意識の強い文学者によって継承されてゆく」(II, 44)としかるべき位置づけをおこなう。また、エマソンの影響をさまざまな作家や文学運動に見出そうとするところは、この文学史の特徴のひとつであろう。リアリズムを論じた章でも、エマソンの影響を指摘しているし、ノリスやクレインなど自然主義の文学者にも彼の影響を聴き取ろうとする。

 博覧強記の著者であることから、いままで知らなかったこと、あるいは気にも留めなかったが教わってよかったと思うことを本書からたくさん学ぶことができる。たとえば、Captain John Smithのキャプテンが船長ではなく、陸軍大尉という意味であることを、氏は伝記的事実から明らかにしてくれる。あるいは、フランクリンのThe Way to Wealthが最初はFather Abraham’s Speechとして出版され、死後に現在の表題になったこと。あるいは、一口知識に類するものではあるが、クレヴクールというフランスの家名が英語で“broken heart”という意味であること。詩人ウィリアム・カーロス・ウィリアムズのミドルネームは、母親がプエルトリコ系であったからだということなど。こうしたことは些細かもしれないが、ひとつひとつの事実を明らかにしないではすまない徹底した探求心は見習いたいものだ。
 オコナーの章に、彼女のわずか1篇の短篇を翻訳するにも、氏はほとんどすべての作品に目を通したというエピソードがさりげなく置かれているように、大変な勉強家であり、その対象はアメリカ文学全般を対象としているから、特定の作家を専門としている研究者でも抜けているような情報がぎっしり盛り込まれていることには驚かされた。たとえば、ワシントン・アーヴィング論。メルヴィルに“Rip Van Winkle’s Lilac”という遺稿があること、ハート・クレーンのThe Bridge(1930)に“Van Winkle”という詩があり、リップという少年が登場すること。あるいは、ソロー論で、シンクレア・ルイスが若いころ、Walden に強い影響を受けたこと。あるいは、オールコット論で、ユダヤ系現代作家のシンシア・オージックがLittle Womenを1万回も読んだこと、ボーヴォワールも少女時代、この小説を読んで影響を受けたこと。フィッツジェラルドのミドルネームはScott Keyであったということからわかるように、父方にアメリカ国歌を作詩した人物がいること。ラルフ・エリソンのフルネームはRalph Waldo Ellisonといって、Ralph Waldo Emersonに因むこと。マッカラーズが思春期にオニールの芝居に夢中になっていたこと。スタインベックの『怒りの葡萄』というタイトルは、聖書に直接由来するというよりは、“Battle Hymn of the Republic”(1862)に由来すること。こういう、目から鱗がぼろぼろ落ちるようなエピソードが散りばめられているのである。
 さらに見習うべきは、語義をOEDにあたるなど、厳密に解釈しようという姿勢である。たとえば、リアリズムのイズムが「主義」という意味ではなく、リアリズムは動詞realizeの名詞形であって、たんに「リアルにすること」「リアルな状態」という意味にほかならないという。リアリズムを考えるときに、これまでの思い込みを修正させてくれるだろう。フロストの有名な詩、“The Gift Outright”をテキスト分析するに際し、このギフトが他動詞giveから派生した名詞であるから、こちらが受け取る「贈り物」ではなく、こちらから与える「捧げ物」とみるべきであろうと述べ、これまた思い込みを正してくれる。そのうえで、詩の研究者でもこれほど説得力ある解釈を行うのはむずかしいくらい、綿密な解釈を展開していくのである。
 本書のさらなる楽しみとして、アメリカの作家が日本でどのように受容されたのか、氏は折にふれて紹介してくれる。日本人ならではのアメリカ文学史の賜物である。たとえば、ワシントン・アーヴィングの代表的な短篇が明治時代から紹介されていて、英語の教科書に採用されていたこと、1886年に「リップ・ヴァン・ウィンクル」の韻文訳がでているほか、1889年に森鴎外がドイツ語経由で「新世界の浦島」として翻訳したこと。受容史にとどまらず、よっぽどの専門家でもなければ知らないエピソードも交えてくれる。たとえば、フランクリンの13徳目にならって、明治天皇の后が「弗蘭克林十二の歌」という和歌を詠んでいること、明治天皇の侍講が帝王学の一端として『フランクリン自伝』について進講したこと、同書を読んで正岡子規が感激したこと。ホイットマンの章では、夏目漱石が大学3年生のとき(1892年)に、ホイットマン論を書いたことも触れられている。ドライサーの章では、谷崎潤一郎が『文章読本』において、しつこいくらい濃密な文章の例として、『アメリカの悲劇』を引用していること。石川達三が『青春の蹉跌』においてドライサーのこの小説を下敷きにしていること。昭和のはじめから、尾崎士郎や高橋新吉などがアンダソンの作品を愛読していたこと。社会主義者の堺利彦がロンドンの『荒野の呼び声』を翻訳したこと。渡辺氏の恩師である、東大英文科のアメリカ文学担当の初代教授、西川正身がこの堺訳を読んでアメリカ文学の魅力に目覚めたこと。有島武郎がアメリカ帰国後、東北帝国大学農科大学予科の英語教師としてこれを教科書に使ったこと。経済小説で知られる城山三郎が大学時代スタインベックの『怒りの葡萄』に烈しい感動を受けたこと。こういう、知って得するエピソードが満載なのも、この文学史を読む醍醐味である。
 そのほか、本書には英文の抜粋をふんだんに盛りこみ、アメリカ文学のアンソロジー(詩文選)ともなっているとか、各章の作家論が作家の個性に応じて、多様な語り口と段取りで展開し、何章続けて読んでも飽きないようになっているとか、講義の枕から読み手をぐいと引きつけてしまう工夫が凝らされているとか、数々の美点を備えているのだが、書評子としては、氏の姿勢に顕著なバランス感覚の絶妙さに感心させられた。現代の視点から過去を断罪するような極端さ(あるいは愚)を避けようとするのである。たとえば、キャプテン・ジョン・スミスの章で、ポカホンタスの物語を白人の進出を正当化するフィクションだと決め付けるのは、「一方的な解釈」(I, 99)ではないか、白人と先住民の武力衝突の責任を一方的に白人の側にもとめるのは、「ある種の自虐史観」(I, 101)ではないか、と漏らす。あるいは、インディアンによる捕囚物語を評価するに際して、捕囚物語を、白人による、西欧文明中心的な自己正当化の記録として読むよりも、「自らの魂の救済が人生の最大関心事であった時代に、真摯に生きた人間の記録として価値をもつ」(I, 135)のではないかと述べる。あるいは、フランクリンの章。彼をアメリカ文学史にきちんと位置づけたあと、最後のほうで、彼の人間味あふれる性格を浮き彫りにするような書簡――愛人は年配の女性を選ぶようにという若者への助言――を紹介する点などにも、絶妙なバランス感覚を看取できよう。
 ほんのときたま、吐露される著者の文学観には共感することしきりであった。たとえば、安易な映画論で卒論を書く学生が増えていることについて、「私は文字で書かれた文学作品の世界の奥深さを思って、英文科ではやはり文学作品を研究の対象とすべきではないだろうか」(III, 108)という。サリンジャーのThe Catcher in the Ryeの一場面について、「小説は人生の教科書ではないのであり、具体的な生き方について読者に指示、忠告をあたえる必要はないのであって、人生におけるこうした幸福な一瞬を捉えて、それを読者に伝えるほうがより重要なのではないか」(III, 147)という。トニ・モリソンのBelovedについて、「すぐれた文学は一般化された真実(platitudes or generalities)ではなく、特定の細部の事実(specifics)から成り立つもので、それによってこそ、読者の偏った常識は打破されるのである」(III, 375−76)と述べる。滋味あふれる文学観である。 すばらしい作品を残してくれた作家への敬愛と感謝の念が氏にはいつもあるのだろう。作家の人間性まで、これほどいきいきと描かれた文学史は稀有である。好き嫌いがあってしかるべきなのに、著者にはどんな作家と作品も受けとめることのできる、海のような包容力がある。たとえば、マーク・トウェインとヘンリー・ジェイムズを、あるいはアップダイクとピンチョンを、あるいはジョン・アーヴィングとレイモンド・カーヴァーを、同じような情熱とエネルギーをこめて、論じきれる研究者がいるだろうか。フィッツジェラルドはあるエッセイで「一流の知性の証明は心にふたつの対立する考えを同時にもちながら、それでもなお機能する能力である」と述べたが、こういうダブル・ヴィジョンは、著者にこそあてはまると言うべきであろう。

 講義録という体裁をとっているものの、その実、研究者がじっくり読んでも勉強になる、深い解釈が展開している。たとえば、クレヴクールを扱った第18章。Letters from an American Farmer (1782) を丁寧に読み解きながら、クレヴクールは「ただ単にアメリカの明るい未来を予言し賛美しただけではなく、アメリカ人の意識の底にある不安や、根源的な衝動をいち早く指摘した」(230)、その点でメルヴィルや晩年のマーク・トウェイン、初期のフォークナーの暗い思想に通じていると結ぶ。あるいは、アップダイクを扱った第73章。彼を文学史的にどう位置づけるべきか問うた後、「彼は社会のタブー、ことに性のタブーに挑戦する社会意識の強い文学者であると思う。しかも、社会通念を根底から覆す革命的な文学者ではなく、体制内にあって社会問題と対決し、漸進的に社会改革を目指すタイプの文学者である。そういう意味で、唐突だが、彼は20世紀のWilliam Dean Howellsといってよいように思われる」(III, 212)と述べる。このように、大学でアメリカ文学史を講じている方はもちろんのこと、狭い専門を抜け出して、アメリカ文学の大きな流れを頭に入れておきたいと考えている方も、文学研究に行き詰まりを感じている方も、全3巻を読み通すべきである。今後の文学研究に役立つヒントがもらえるだけではなく、より広い視野を得て、いま一度専門に立ち返ることができるであろう。
 入念に校正がなされた結果、瑕疵となるような誤植がほとんど見られず、全3巻1500頁近い書物であることを考えると、奇跡である。気づいた限りで誤植は3箇所のみ。いずれも大きな瑕疵とはならないが、版を重ねてほしい書物であるから、指摘したい。第1巻vi頁、下から6行目。「昭和16年(1941)年」と年がひとつ余計である。後は第3巻に集中している。318頁、下から4行目のマーク・トウェインがなぜかエマーク・トウェインになっている。345頁、下から8行目の「One Flew Over the Cuckoo’s Nestは」と「は」がイタリック体になっている。誤植ではないが、79頁、下から4行目と163頁、下から2行目において、行頭を揃えるべきところ、最初の活字が半角分字下げになっている。こんな程度の驚くほどの少なさである。
 最後に、もうひとつ、本書の美点を付記したい。書評子も本体にばかり目を向けて、最後の最後まで気づかなかったのではあるが、人名索引と作品名索引からなる索引がじつに丁寧に、かつ親切に作られていることに驚き、感動もした。一見すると、すっきりした(いや、あっさりした)外観を呈しているのだが、どうしてどうして、使い勝手のよい仕上がりになっている。シンプルでしかもじつに美しいのである。こういうことも含めて、本書は総括するに、日本において本格的なアメリカ文学研究が開始されてから早や半世紀以上、そう短くはないアメリカ文学研究の最高到達点を画す、記念碑的な著作である。日本のアメリカ文学研究もここまできたのである。ひとりの研究者でもここまで到達することができるのだということに、驚きと感動を禁じえない。今後のアメリカ文学史研究は、参照枠として常に本書に立ち返りながら、さらに先を目指して進むにちがいない。この偉業をひとりで達成した著者に深甚なる敬意と謝意を表したい。




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