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英語クリーシェ辞典 もんきりがた表現集  ベティ・カークパトリック 著 柴田元幸 監訳

掲載誌:研究社「時事英語研究」2000年9月号
評者: 中村保男 (なかむら・やすお / 翻訳家、批評家)




 原爆開発にまつわるスパイ小説『ロス・アラモス =運命の閃光』を訳していた時、She took it with her. なる文にぶつかり、読解に 20 分かかった。she はスパイで、既に事故死しており、it はスパイ組織の全貌だと解ってはいても、文意全体がつかめなかったのだ。
 だが、『英語クリーシェ辞典』で you can't take it with you (A) の項を読んでいたら、瞬時に「死人に口なし」と訳せたろう。(A) は「あの世にはお金も物も持って行けぬ」という意味で、私が手こずった She took it with her.(B) は(A) の肯定形で、「秘密は女スパイがあの世に持ち去った」の意だからである。 つまり、(B)は(A)の応用例で、いかに(A)が普及しているかの証拠なのだ。
 それだけではない.(A)はいつ頃から使われだした表現なのか、その年代を記した上に、1936 年のブロードウェイで(A)を題名とする喜劇が大当たりを取ったのがきっかけで(A)が世に広まったという史実まで考証し、ひいては聖書にも(A)と同じ発想の表現がある旨を付記しているのだから、この辞典は念が入っている。まったく貴重な資料集だ。
 次は we'll let you know だが、その表向きの意味「追ってご通知します」が実は体のいいお断り文句で、素人のど自慢で言えば鐘音ひとつの落選宣告なのだから面白い。それを「はい、お次」と訳したのも簡明で味がある。
 以上のような例はどの既成辞典にも出ていない新情報であるところがこの辞典の一大特色なのだが、既に辞書に出ている決まり文句を挙げている場合でも、どんな場でそれを使えばいいかが説明されている。これも既成辞典にはあまり見られない取り柄である。
 たとえば、a field day が「めったにない好機」を意味することは普通の辞書にも出てはいるが、本辞典には「今日では逆に他人の不幸について使うのが普通」とその用法がきちんと説明されている。
 ところで、常套句とは何か。学者さんたちは皆その定義づけに迷っているが、「知識人が使いたがらない陳腐な決まり文句」といったところに一応落ち着くようだ。政治家がそれを好んで使うのは相手が機微を解せぬ愚衆だからだと指摘する論者さえいる。
 なるほど「明るく豊かな未来をめざして粉骨砕身する所存であります」などと演説されると 〈胸糞が悪くなる〉 ほど 〈聞くに耐えない〉 のは私も同じだが、決まり文句にもいろいろある上に、人さまざまなのだから一概に否定しさることはできないし、第一、先の 〈 〉 の部分も決まり文句の一種だということになると、何も言えなくなってしまう。
 「命の洗濯」「薄幸の美人」「涙の別れ」といった決まり文句で 〈真情を吐露〉 する人や場合もある以上、決まり文句を全否定するのは 〈愚の骨頂〉 に 〈ほかならず〉、要は 〈時と場合〉 に則して使えば 〈効果抜群〉 となりうる。それを教えてくれるのが本書なのだ。
 「諺が廃れてから決まり文句がはやりだした」というが、今や日米ともに決まり文句すら使えぬ人が多いのだから、まずは決まり文句や慣用句から入って諺に遡るのが表現を豊かにする 1 つの大道であろう。
 (原文は旧かなづかい。編集部で新かなに改稿)




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