研究社 会社案内 採用情報 サイトマップ 書店様向け 教育現場向け

研究社 WEB マガジン Lingua リンガ

 

 

第9回 V 方言キャラ・年忘れ特別対談編

 平成最後の年末年始の特別企画として、『研究社 Web マガジン Lingua(リンガ)』で連載中の「〈役割語〉トークライブ!」と「Web 版! 読み解き方言キャラ」が相乗りにて、ヴァーチャル日本語(V 日本語)をテーマに金水敏と田中ゆかりが年忘れ&新春トークをお届けします。

 2018年を振り返りつつ現代×地域方言寄りの前編は「Web 版! 読み解き方言キャラ 第9回 V 方言キャラ・年忘れ特別対談編」(2018年12月号)として、V時代語や翻訳寄りで互いに新しい課題を見出す後編は「〈役割語〉トークライブ! 第9回 V 時代語@時代ならびに翻訳・新春特別対談編」(2019年1月号)として掲載します。年忘れ・新春らしいゆるふわさを伴いつつ、通常号の倍程度のボリューム感。本企画にて年末年始を V 日本語に少し深く触れるきっかけとしていただけると幸いです。

 と、いうわけでまずは、2018年の振り返りからという「お題」が投げられたところから「年忘れ編」が急に始まります … 。


(研究社応接室にて。2018年11月24日)

 

【年忘れ編: 目次】

◆振り返れば「時代劇・歴史ドラマは台詞で決まる!」の一年だった!
◆方言キャラとしての海女さん――『007』、日活ロマンポルノから『あまちゃん』へ
◆役割語はなぜ日本でこんなに発達したのか?
◆方言キャラは笑いから郷愁の対象へ
◆日本の落語とヴィクトリア朝の朗読会
◆方言コンテンツの「リアルとヴァーチャルの往還」
◆ヨーダ、釜爺、ユパさまも、みんなみんなメンター&老人語
◆『スター・ウォーズ』にみる、宇宙の中の田舎ことば
◆「浅見光彦シリーズ」「水戸黄門シリーズ」と方言キャラ
◆国内外の田舎っぺキャラ――『ドラゴンボール』、『クロコダイル・ダンディー』
◆最初は方言キャラではなかった「坂本竜馬」
◆方言キャラになりにくかった大久保利通
◆『八重の桜』と朝ドラヒロイン
◆時代劇戦国武将の方言キャラ
◆「テニミュ」と方言キャラ

◆振り返れば「時代劇・歴史ドラマは台詞で決まる!」の一年だった!

田中: 今年の振り返りですか? 2018年はなんと言っても、V 日本語的振り返りとしては、3月9日に早稲田大学小野記念講堂で開催した「時代劇・歴史ドラマは台詞で決まる!―世界観を形づくる「ヴァーチャル時代語」―」のシンポジウムで始まり、その記録としてのシンポと同タイトルのブックレット(田中ゆかり・金水敏・児玉竜一編、笠間書院、2018年12月)の刊行だと思うんですけれど … 。あれは割合いろんな人に関心を持っていただいたし、盛り上がったように思うんですが、いかがでしょうか。

金水: そうですね。

田中: シンポジウムを通じて結構大きかったなと思ったのは、歌舞伎研究者の児玉竜一さんに来ていただいたことでしょうか。もちろん NHK 大河ドラマ『真田丸』制作統括などをされたドラマ制作のプロ・吉川邦夫さんと、『考証要集』1・2(文春文庫、2013年、2018年)の著書をお持ちの時代考証の第一人者である大森洋平さんに入っていただいたおかげですけれど、歌舞伎研究の児玉さんに入っていただいたのも結構大きかったなあというのが実感ですね。


提供 日本大学


提供 日本大学

ヴァーチャル方言のシンポといえば、2014年にやはり金水さんと一緒に早稲田大学小野記念講堂で開催したシンポジウム「ドラマと方言の新しい関係―『カーネーション』から『八重の桜』、そして『あまちゃんへ』―」(金水敏・田中ゆかり・岡室美奈子編『ドラマと方言の新しい関係』笠間書院、2014年8月)の中では、NHK 連続テレビ小説『あまちゃん』(2013年前期放送)放送直後だったので「方言コスプレ」ドラマを打ち立てたエポックメイキング作品として『あまちゃん』の話が出ましたけれども、「方言キャラの海女」というのは、歌舞伎という古典芸能の中にすでに出てきていて、台詞も「方言」であることが、そのキャラの作品内位置づけとして重要であるということを知ったことは、自分としては、面白かったです。

金水: ええと、『平家女護島(へいけにょごのしま)』。

田中: はい。1719(享保4)年初演の近松門左衛門作の浄瑠璃の『平家女護島』。それに出てくる「鬼界ヶ島」の海女の千鳥が海女ことばをしゃべるという設定のことです。しかも歌舞伎では「かわいがってくださいね」という意味の台詞が何方言ベースかわたしは教養不足でわからないのですが「りんにょぎゃってくれめせや」と言う。とくに注釈もなく歌舞伎ではポンと「わかるでしょ」的な感じで観客に投げ出される作りなんだそうですが、戦後に上演された前進座[1] の演出では、当該の台詞のあとに他の登場人物による「それどういう意味?」というツッコミ台詞があり、「かわいがってほしいという意味」という注釈的やりとりがある、というくだりです。古典芸能としての歌舞伎においてすでに「観客にもすんなり伝わらない鄙のことばをしゃべるかわいい『あまちゃん』」ということが表象されている、というところが印象に残りました。つまり、「方言萌え」という感性も、突如出てきたわけではなく、歌舞伎のような古典芸能の段階でも、一つのタイプとして存在しているということが、自分の中では新鮮な気づきでした。

金水: なるほど。

田中: だから今わたしたちが見ているもの、たとえばキャラやらキャラの属性やらそれを形づくるものやらは、突如出現したわけではなく、原型というか下敷きがあり、それが時代時代で編集加工されて目の前に立ち現れているのだ、ということを改めて実感したということです。この原型的なものは、金水さんの『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』(岩波書店、2003年)でも書かれているように、まあ近世の末くらいがいいところかな、と思っていたんですけれども、児玉さんの話を聞くと、もうちょっと遡ることができるのかな、と。で、方言萌えみたいな感性っていうのは、割合近年のことかなと思いながらも、そういったコンテンツの中には、ちょろちょろっと入ってきていて、まあさまざまなことが重なって、今前景化しているのかなと思ったりしたことが面白かったのと同時に空恐ろしくなりました。

つまり結局、起源をたどったりすると、どんどんどんどん遡って行って、メディアもコンテンツもまだまだたくさん勉強しなきゃいけないのかなと思うと、楽しかったのと発見があったのと、だけではなく、空恐ろしさがいや増したということです。今年の始まりは先に述べた「ヴァーチャル時代語」のシンポジウムで、後半はそのまとめブックレットの編集と刊行で締めくくるわけですが、全然「終わり」ではなく、そこで見出された宿題がさらに大きな化け物になって自分に襲いかかってきているっていう感覚がありました。

目次に戻る

◆方言キャラとしての海女さん――『007』、日活ロマンポルノから『あまちゃん』へ

金水: 『あまちゃん』といえば、最近ある方に「日活ロマンポルノに映る〈海女〉――郷愁を伴った野生のエロティシズム」(小暮修三『映画研究』11、2016年)というものを教えてもらいました。ここでも海女と方言が結びつく構造が見て取れるのですが、田中さん読みましたか?

田中: はい、わたしも最近ある方に教えてもらって読みました。その論文によると日活ロマンポルノでは、1975年から1985年までの11年間9タイトルの〈海女シリーズ〉が夏の定番作品として制作・公開されたという、あれですね? そして、冬の定番としては似た構造の〈温泉シリーズ〉があったという。

〈海女シリーズ〉については、実見したことがないので、同シリーズが「地方・海女・方言」vs「都会・男・共通語」という構造で作られていたことは、論文を読んで初めて知った次第です。

その論文では松竹や新東宝などでも〈海女シリーズ〉に似たものが制作・上映されたらしいことが示されているので、日活ロマンポルノに限られた「設定」ではなかったようですね。それらが「方言」と結びついているかどうかはわかりませんが。

そう言えば、1967年公開の日本が舞台となる「007シリーズ」第11作『007は二度死ぬ』(ルイス・ギルバート監督、ユナイテッド・アーティスツ)でもボンドガールの一人が海女のキッシー鈴木(浜美枝)ですよね。「007」の海女がオリエンタリズム表象の一環ということならば、国内映画において〈海女シリーズ〉の海女が方言キャラとして造形されるのは同じ意味を持ちそうですね。

もっと言えば、川端康成の『伊豆の踊子』の〈温泉〉、それから三島由紀夫の『潮騒』の「初江」は島の有力者の娘かつ海女で「今はいかん。私、あんたの嫁さんになることに決めたもの」と方言キャラで、〈海女シリーズ〉の香りがする。そもそも、1964年には日活では当時の人気俳優の清純派・吉永小百合主演で『潮騒』が制作・上演されている。こんなことを踏まえると、文学とか文芸映画とかのフレームが、ロマンポルノを見る人たちの中にも共有されていて、それらをオーバーラップさせつつの、より直接的欲望として描かれたものが “「地方・海女・方言」vs「都会・男・共通語」という構造” なのでは … ? だから昔は文学っていうのが、ソフトロマンポルノのような役割を果たしていて、だんだん文学、文芸映画それがもっと俗な大衆カルチャーみたいになって、そしてその階層性がミックスされて現在がある、というような気がします。

そう考えると、「007」からロマンポルノの〈海女シリーズ〉から、それら踏まえての『あまちゃん』だとすると、同作脚本家の宮藤官九郎は、すごいな、と。そのあたりのこと、一度ご本人にうかがってみたいですね!(『あまちゃん』でちょいちょい取り上げられたフレディー・マーキュリーの件も含め。)

『あまちゃん』では、第1話の中で、主人公の東京世田谷生育のアキちゃんがはじめて袖ケ浦に行き、ベテラン海女役の渡辺えりとかのベッタベタな方言に対して、最初は全然わからないのに、第4話から突然ニセ方言キャラとして生まれ変わる。しかし、あくまでもニセ方言であるので文末表現や語中有声化など言語変種の一部において、軽く訛るヒロインともっと訛っているベテランの海女という構造は日活ロマンポルノの〈海女シリーズ〉と構造が完全にかぶっています。宮藤官九郎も多分三島とか川端みたいなところまではそんなに意識しているかはわからないけれど、おそらく山口百恵・三浦友和版の『潮騒』(西河克己監督、東宝、1975年)とかの文芸映画の流れは汲んでいて、実際「その火を飛び越えて来い」みたいなシーンが『あまちゃん』の中にもあるじゃないですか。あれは明らかに『潮騒』があり、みんなの脳内に映像が実はあるいは映像じゃなくても、ヒーローとヒロインがくっつきそうでくっつかない時に、必ず降り込められて山越えとか海越えとかになって、ここに至るみたいなところは。漫画の中にも非常にたくさん再生産されているから、色々なものが後ろにありながらの『あまちゃん』というのはそういう作品なのかなと思うと、宮藤官九郎恐ろしいなと、っていう風なことを考えていました。年忘れ対談にふさわしいネタがどうかはわからないんですけど。

はー、なんかちょっとわたしが一気にしゃべりすぎましたかね … 。

目次に戻る

◆役割語はなぜ日本でこんなに発達したのか?

金水: それで、話を少し戻して、キャラやキャラ属性と結びつく言語ステレオタイプ的なものが近世からあるという話でいうと、だからぼくの最近の一つのテーマはあとで詳しく申し上げますけれど、結局役割語っていうのが、日本でこんなに発達しているのはどうしてかっていう話で、江戸時代に大衆芸能、大衆文芸の中で、キャラクターをことばで描写するっていう習慣ができて、制作者と聴衆の間に共通のコードが成立していったと。言語的に言えば、日本語と韓国語は文法構造はそっくりなんだから、条件さえ揃えば、韓国語の役割語も今以上に発達してもいいはずなんだけど、やっぱり明らかに日本の方が役割語的な表現が発達していると。で、それはどうしてなんだろうということを考える時に、江戸時代には江戸時代の役割語の発達っていうのもほぼ完成されていて、そういうコードっていうのができて、だからこそ、日本では、語り芸がめちゃくちゃ発達していきます。例えば浄瑠璃っていうのは、そもそも浄瑠璃と人形芝居が合体して人形浄瑠璃になったんだけど、浄瑠璃は浄瑠璃で独立して成立しているわけですよ。落語ももちろんそうですし、講談、浪花節といったものもありますし、前田均先生に指摘していただいた紙芝居もそうだなと思いました。

最近、第13回繁昌亭大賞を取られた桂かい枝さんっていう落語家さんが英語落語をやっていらっしゃるんですけれど、ちょっとお話しする機会があって言われたのは、かい枝さんは僕の『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』を読んでらしたんですけれども、英語では役割語があまり発達していないので、英語落語にあんまり人数が出せないんだと。たくさんの人が出せないんだとおっしゃっていて。そこであっと思ったんですけれど、つまり落語の成立のためには役割語は必要であり、落語を受け入れることによって、それを楽しむことによって、役割語によるキャラクター描写っていうのを楽しむっていう、そういう姿勢が聴衆の側にできたのかな。

田中: 一理あるような、ないような … 。米語でも英語でも言語ステレオタイプはあると思うけれども、具体例が挙げられない … 。日本語の役割語と同様にネイティヴなら「正解」変種がアウトプットできるけど … なら、なんとなく納得できますし、日本語はキャラ・キャラ属性と言語ステレオタイプの結びつきはけっこう固くて、しかも広く一般に共有されているとは思いますが … 。話芸とまではいかないのかも知れませんが、英国ヴィクトリア朝の文学の研究をされている方によれば、当時の小説家が自作を大衆の前で啓蒙活動の一環として朗読するという会があってそこではけっこう、声色なども使い分けてキャラ立てしたとも聞くので … 。

目次に戻る

◆方言キャラは笑いから郷愁の対象へ

金水: 言語ステレオタイプのうち地域方言と結びつく多くの場合は、笑いの対象体になっているのかなと思って。典型的なのは、わたしの『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』の中でもあげていますけれども、洒落本で田舎武士を笑うパターンです。江戸の女郎が都裏の田舎者の侍をバカにしながら、その振る舞いを笑う。多分、上方にも同じような構造があって、田舎者といっても上方の場合はだいたい西方からくるんですけれど、やっぱそういう田舎者を笑うための田舎弁っていうのが多分あって、それは洒落本もそうだし、式亭三馬の『大千世界楽屋探』では、熊谷直実が敦盛を討つシーンでは、熊谷直実は坂東武者だから、坂東弁って、関東の田舎のことばで語りかけて、敦盛は京ことばで受け答えをする。つまり、『平家物語』は本当はこうだったはずだっていう方言バージョンを作るんですよ。だからそれは結局そのリアルにしたらこうなるぜという笑いを狙っているってそういう、やっぱりまあ、方言を笑っているのかなっていうんですけれども。

田中: もちろんその方言は長くスティグマだったので、笑いの対象になってきた、それはそのコンテンツの中に方言が採用される一つの大きな要因だった。それは上方弁と一部の江戸弁を除けばっていったところだけど。そうだと思うんですけれど。さっきの『平家女護島』の海女のところはあれは単なる笑いなのかなあ? もう一つ、確かにその笑いの要素として入ってきているというのは、あると思うんですけど、一種のそのやっぱりその郷愁っていったものも入ってきていると思うんですよね。とくに高度経済成長期以降。

金水: それはもちろんそうですね。

田中: だからその、何だろう、今でも方言が笑いと結びつく確率はかなりあると思うんです。だけど、その笑いとかバカにするとかの確率が高いところからかならずしもそうではないところへ移行してきたのが、今なんじゃないのかなあ、と。

金水: ああ、もちろんです。しかし、江戸時代はやっぱり、笑っている確率は高いですね。

目次に戻る

◆日本の落語とヴィクトリア朝の朗読会

田中: それはそうと思うんですけれど。金水先生のお話になってた、日本語の中で役割語が発達してきた原因は話芸、とくに一人で語る話芸の多彩さにあるというところは、そうかなと思うのが8割と、そうでもないかも … が2割 … これは多すぎるかも知れませんが … かな、という気もしないではないです。先ほどもちらっと言いましたが、わたしの同僚でヴィクトリア朝の研究をされている方を含めて、学内で他学科の先生方も巻き込んで「「らしさ」研究会」っていうのを主催してるんですけれども。ヴィクトリア朝では、有名な著者が自作を朗読する、一般大衆に向けて朗読するという場があって、それはかなり盛り上がったんだそうです。で、その時には、かなりもう声色を変えたりしながらキャラ立てしつつ一人語りだったということです。わたしはその一種の朗読会で使われたヴィクトリア朝の原著を自分で読んでいないからわからないんですけれども、キャラ立てしながら朗読するということがあったということは、一種のまあ落語とまではいかないけれども、一種の「話芸」なんじゃないかと。そして、キャラクターを切り替えるっていったことは、やっぱり英国にも、それなりにキャラと結びつく言語ステレオタイプがあったんじゃないのかなあ … と思うんですけど。日本語の役割語が日本語ノンネイティヴにはぴんと来にくいように、英語ノンネイティヴのわたしたちにはぴんと来にくいだけなんじゃないか、と。

金水: もちろんそうです。しかし、言語ステレオタイプのうち日本語の役割語にはステレオタイプと結びつく言語形式が明確にあるということが、大きな特徴なんじゃないでしょうか。たとえば、語彙ですね。

シェイクスピアだって、いろんなキャラクターが出てくるわけですから、そこには例えばフランス訛りのキャラクターなど出てきますから、民族ステレオタイプは当然あったはずだし、演劇だからそうなんだけれども、でもやっぱり、英語では方言はスティグマとして扱われやすいけれども、日本語ではそれほどスティグマティックじゃない。そのことばの切り替えというのがいわば娯楽として成立している。当然、西洋だって老人の話し方、男の話し方、女の話し方、お姫様の話し方等、全部違っていて当然なんで、その部分は日本語とそんなに変わってくるわけはないんだけれども。

田中: それらがあんまり笑いの対象にならない?

金水: ええ、まあ笑いだけじゃなくて。だからパッと聞いただけで、つまり素人が文字で見ただけでわかっちゃうっていうところね。声色っていうのはやっぱりプロの技が必要ですよね。だからあの朗読術とか西洋流の演技術っていうのは、むしろやっぱり声の出し方というところにすごく重点があったはずなんで、それに対して、文字に起こしたとしてもですよ。あるいは、素人がその口に出したとしても、瞬間的に誰が話したかわかっちゃう。で、かつそれが、英語圏だととくに、ヨーロッパ全体でそうかと思いますけれど、やっぱり目で見てわかるような、アイダイレクト(eye dialect:非正規的な綴りで、方言や訛りを表現する)というのは、威信が低くてスティグマティックになりやすい。日本だって方言がそういう扱われ方をすることはあるんだけれども、とくにやっぱり70年代以降は、方向性が変わってくる。前の万博あたりになるんですが。

田中: 2020年東京オリパラに続いて万博もふたたびくることになりましたね。大阪に。

金水: 郷愁の対象って言いますか。方言はいいもんだっていうのが、それはね、方言研究の中で盛んに研究されてますけれども、それがプラスの方向に働いた時に、簡単にそういうものがいろんな表象として、すぐに利用できる、そういう環境っていうのは江戸時代からつむがれていたんだろうなと思うんですけれど。

田中: そうですね。米国の日本学研究者たちと言語ステレオタイプの話、とくに方言コスプレとかの話をするとしばしば指摘されることがあるんですが、日本語社会においては、非標準的言語変種の一種である地域方言は、かつてはスティグマだったけれど、今はスティグマとか差別とかみたいなことと結びつきにくく、むしろ面白いとか可愛いとか肯定的に捉えられているという話をすると、ちょっと信じられないっていったことを言われます。米国では、地域差よりも話者の属性、とくにそのオリジンや階層などが意識されやすいので、非標準的変種を演出にせよ意図的に用いたりしたら差別主義者のように受け止められる可能性が高いので、方言コスプレはよほど親しい間柄のくだけた場面でないとできない、と言われます。

もちろん日本でもやっぱり70年代ぐらいまでは田舎ことばを真似してみたりするといったことについてはそれはバカにしているといったことがあったし、今でも完全に「ない」とは言えないわけですが、人種・民族・階層などによる属性差というのが米国に比べると「見えにくい」から「地域差」を表現バラエティーのひとつのツールとして援用することには寛容なんじゃないのかなあとぼんやり思っています。これは、ぜひ異なる言語社会における対照研究をして、解明したいところですね。

目次に戻る

◆方言コンテンツの「リアルとヴァーチャルの往還」

田中: それから、日本語社会には、方言コンテンツがかなりたくさんあるので、地域と言語形式の結びつきとか、言語変種とイメージの結びつきとかが、共有されてきた歴史があるとも思うのですが、どうでしょうか?

金水: コンテンツがあるというのは方言集みたいなことですか。

田中: 地域と言語形式の結びつきにはそういうのも関係あると思うんですけど、むしろ「方言」を使った、文学作品であるとか、大衆芸能であるとか。だから結局最初の話に戻ってしまって、江戸時代におけるキャラクター描写。

金水: だからそれは、要するに循環的と言いますか、その表現することができて、それを楽しむことができて、それを目的とした作品が生まれることによって、いわばステレオタイプが強化されて、一層利用しやすくなる。そういうサイクルですよね。

田中: はい、わたしの『「方言コスプレ」の時代』(岩波書店、2011年)の前段の論文から『方言萌え!?』(岩波書店、2016年)でも繰り返し言及している「リアルとヴァーチャルの往還」です(笑)。

多分最初は、そんなに言語形式も定まっているわけでもなく、たまたま選択されたものが、真似されたり、これはいいということで再選択されたりしているうちに、だんだん取捨選択されてきて、最終的には「これだったら、もうこれとこれのパーツがあればいいや」みたいな形でこうオリジナルとはだんだん違う形に編集・加工されていって、ベタな結びつきができあがる。そうなると、オリジナルはもう個人としても社会としても忘れちゃったけど、さらにそこからフィルターを通って生き残るものがより強いベタに、でもベタから離れようとして、社会としてのありものとありものをつなぎ合わせたりして、そしてまたフィルター … 。でそうこうしているうちにすべての起源がわからなくなるから、「なんちゃって」化も進むんだろうなぁ。

目次に戻る

◆ヨーダ、釜爺、ユパさまも、みんなみんなメンター&老人語

金水: まあだからやっぱり、老人語とか博士語とかはまさしくそういうサイクルで、最初は方言差だったわけですよね。江戸時代の上方語と江戸語の方言差。それが江戸の中で、いわばプレスティジ(威信)が高い伝統的な話法とそれから新興勢力っていいますかね、若年層でかつその階層の低い人たちが好んで使うスタイルのことば遣いとの対立っていうのが、いわば文芸や演劇の中で固定化されていって、老人が上方風の言い方をする人物として描かれるようになり、今日の老人語に至る。これはもう到底滅びると思えない。それは多分その老人の役割っていうのがやっぱりメンターとしてフィクションの中で面々と受けつがれている。

田中: 『スター・ウォーズ』のヨーダ(『スター・ウォーズ』エピソード1〜6に登場するジェダイ・マスター)みたいな主人公を導くメンターも老人語だから、まあそういう意味で老人語は滅びない。

金水: そうです。だから、今の授業で、宮崎アニメをずっとやってるんですけど、もう繰り返し出てくるんですよね。老人出てきた、ほらメンターだって。『千と千尋の神隠し』の釜爺とかね。『天空の城ラピュタ』のポムじいさんとか、『風の谷のナウシカ』のユパさまですとかね。みんな、老人かつメンター。

田中: メンター属性のキャラには性別を問わず老人語が与えられるってことですか?

金水: そうですね。基本、男性が多いですけれど。

田中: 宮崎アニメのメンターはみんな男性でしたっけ。女性もいますよね?

金水: もちろんあります、あります。例えば、『風の谷のナウシカ』の大ババ様をメンターと見るかどうかですけれども。あと、『魔女の宅急便』のウルスラという若い女性が出てきますから、そのへんはちょっと変化球ですけれども。昔ながらの、昔話的な伝説的な、あるいは神話的なと言っていいかもしれませんが、そういう枠組みが強く出ているものでは、男の老人のメンターが多いのかなあと思いますけれど。

田中: ヨーダっぽいやつですね。

金水: ヨーダっぽいやつですね。

目次に戻る

◆『スター・ウォーズ』にみる、宇宙の中の田舎ことば

田中: まあ、そういう意味では、『スター・ウォーズ』は本当にものすごい典型的な「物語」なんですね。

金水: ええ、そうですね。だからあの『スター・ウォーズ』シリーズのエピソード4。エピソード4, 5, 6の3部作は最初に作られて、エピソード4は神話学者のジョゼフ・キャンベルが監修してたから、ほんとに神話的な構造になっています。その後のエピソード1, 2, 3は、むしろ政治ドラマですね。いかに民主主義を騙って、専制主義がはびこっているかという物語で、あんまり神話的じゃないんですけれど、後続の3部作エピソード7, 8, 9はディズニーが引き取ったということもあって、また結局エピソード4, 5, 6をなぞり直しているんだけど、主人公のジェンダーを変えてみたりといった感じで焼き直している。

『スター・ウォーズ』でヨーダの話し方についてこの前「役割語研究会」で発表された方がいるんだけれど、あれもやっぱり田舎ことばですよ。宇宙の中の田舎ことば。で、結局メンターはしばしば異言語、異なる言語を話す人がメンターになりやすいというのと、マジカル・ニグロということばがあって、マジカルな力を発揮する、ありていに言えばしばしば黒人なんですよね。とくにスティーヴン・キング原作/スタンリー・キューブリック監督の『シャイニング』(1977年刊行/1980年公開)とか。

田中: ああ、スティーヴン・キング。でも、それはブードゥー教とかがらみなんじゃ?

金水: それとの関係はもちろんありますでしょうね。中国人もそうでしょう。田舎の老人が実はすごく偉い人だったというのも当然あるでしょうね。田舎ことばを使う場合にはそういう効果もあり得る。

田中: まあ、『ドラゴンボール』なんかもそんな構図になっていますね。地の果てのところに住む世捨て人はすごい人だったぜ、みたいな感じですかね。

そうなると、舞台が現代でも SF でも時代劇でも、結局役割語として前景化しやすいものと言えば、老人、女性 … あれっ、なんかもう一つあるような … ?

金水: まあ時代劇だったら、武士、男の武士ですけれど。

田中: 上方語ベースの老人語は知恵者転じて博士語とかメンター語とかさまざまな展開をしているので、役割語の「鉄板」。女性性も舞台を問わず今のところ活用されているので、准「鉄板」。地域方言でいけば、ステレオタイプとの結びつきはあるにはあるが、土佐弁とか薩摩弁のようなリョウマとか西郷さんとかとの特定の個人キャラとの結びつきが強いものは、汎用性が低いので、役割語としての鉄板度はまだまだということですね。

目次に戻る

◆「浅見光彦シリーズ」「水戸黄門シリーズ」と方言キャラ

金水: テレビの2時間ドラマで、「浅見光彦シリーズ」で、浅見光彦は東京の人間だから当然標準語をしゃべるんですよね。で、毎回必ず謎の美女って出てくるじゃないですか。それはその地方の名士の娘なんだけど絶対方言しゃべらない。

田中: お嬢さんことば。わたし、そのシリーズあんまり見てないからあれなんですけど。だいたいお嬢様ことばなんですか。

金水: まあ普通の丁寧語の女ことばですよね。

田中: 今日の水準から行くと若干ツンと乙に澄ました女性。

金水: ちょっとミステリアスだったりするんだろうけど、要するに美人女優がやりますから、方言しゃべるのは田舎の駐在さんとか、警察署長とかね。あとはすぐ殺される人ね。

田中: 要するにモブ … 。

金水: ええ、モブキャラですよね。僕の最近やっているキャラクター分類のクラス1, 2, 3[2] で言えば、まあクラス3ね。そのシーンが田舎であることを説明するっていうそういうキャラクターが一番方言使われやすい。まあ警察署長は要するにトリックスターか、敵役、いろんな形で主人公と絡んでくるんでしょうけど。

そういう意味で、田中さんがかねて挑戦したいとおっしゃっている「水戸黄門」、ぼくもぼんやりとしか覚えていないですけど、まあ結構ぼくは好きで見ていましたけれども、誰が方言をしゃべっていて、誰が武士ことばをしゃべって誰が町人と、この前ちらっと見た時は、第何部だったか、西村晃だったと思うんですけど。でも、そこのね。ドラマの舞台は関西、伊勢の方だったかな。まあそれはシリーズを後で調べますけど、町人がね、確かハナ肇で、ハナ肇はべらんめえ口調でしゃべっていて、舞台は関西なのにと思いましたけど。

田中: ハナ肇なら別に他のキャラクターでも作ることができたようにも思うけど。

金水: そんな感じですからね。町人属性というのは「べらんめえ」で、一番表象されやすいんですよね。

田中: それはそうですよね。町人といえば「べらんめえ」。まあ一心太助の流れ。もともと確かに方言はここではないどこかとか、あるいは主人公が普段いるところではないところに移動してきているということをわかりやすく説明するためだけのキャラクターとして配置されていたから、いわゆる「役割語セオリー」で中核的な人物には方言を与えられないから、モブキャラもたくさんあったし、まあ今もそれはたくさん事例はあると思いますね。だけど、そうじゃなくて、金水さんのクラス1とか2とか、あるいはクラスの1のところにも進出してきている方言キャラクターがいるというのは、まあこれは時代の変化。

金水: そうなんですね。

田中: まああるいは、そういう物語が凡庸な感じがしてきちゃうから、変化球で、方言キャラをクラス1、2に入れ込んでおこうかみたいなのかと思うんですけど。でも、じゃあその時にクラス1の世界に入り込める方言っていうのは、どこかって言ったら、これはある程度制限はある気はするんですが、どこの方言でも、じゃあクラス1の世界に入り込む資格があるかと言えばそうでもないですね。これはその、どれだけ日本語社会の中で、その構成員である「みんな」の中に共通の蓄えがあるのか、こうと言えばこう、ここの方言があるという蓄えがあるもので、かつキャラクターでもない、ちょっと違うかな、やっぱりリョウマとか西郷さんといったキャラクターと、それ以外の方言キャラがクラス1の世界に入り込むというのはやっぱり全く別のものからの筋道なんですかね。

目次に戻る

◆国内外の田舎っぺキャラ――『ドラゴンボール』、『クロコダイル・ダンディー』

金水: うーん。例えばね、『ドラゴンボール』は舞台が辺境の星になるんですよね。で、主人公の「おらは悟空だ」っていう形で始まるわけですけども、だんだん台詞が方言ぽくなくなってきますけども、元々は『ドラゴンボール』がギャグ漫画のフレームで、だから同じく漫画原作で、アニメにもなった『いなかっぺ大将』(1968年ごろから数年間、小学館の学習雑誌で連載、アニメは1970〜72年に放送)みたいなものが多分原型にあって、だからやっぱり田舎っぺっていうのは笑われるわけですよね。昔アメリカのドラマで『じゃじゃ馬億万長者』(1962〜71年)、石油で大勝ちした田舎者一家がロスアンゼルスのビバリーヒルズに出てきて、都会生活をしてみてとんでもない騒ぎを引き起こすみたいな連続ドラマがあったんですけれども、そういうパターンってずっとありまして、世の東西を問わず。

田中: 結構ありますよね。1988年公開の『星の王子 ニューヨークへ行く』(エディ・マーフィ主演、ジョン・ランディス監督、パラマウント映画)みたいなパターンですね。それに先立つ『クロコダイル・ダンディー』(ポール・ホーガン主演、ピーター・フェイマン監督、パラマウント映画/20世紀フォックス、1986年)。これは主人公はオーストラリアから来ちゃいましたね。どちらもコメディー映画ですが、そんな感じですね?

金水: そうですね。『クロコダイル・ダンディー』の場合は、都会的な柔弱な悪役とか、周囲の人間を吹き飛ばすようなオーストラリアのなんかマッチョな、かつ、セクシーみたいなね。そういう表象として出てきたんで、それは一変型であるのかなあと、だから『クロコダイル・ダンディー』の中では、アボリジニの力っていうのは、どういうのだみたいな、やっぱりそのマジカル・ニグロみたいに、周辺に住む者が実はすごい力を持っているみたいな、そういう物語の構造でしょうね。

田中: 呪術的な力というもの … ?

金水: ええ、呪術的なね。

田中: でも、なんかなんだろう。辺境っていったようなことはやっぱりその逆転して、ワイルド&セクシーみたいな、その訛り、オーストラリア英語の訛りとかといったこともワイルド&セクシーのアイコンみたいになっている。それは割合80年代ぐらいから … ?

金水: だけど『クロコダイル・ダンディー』もやっぱり、笑いにはくるまれているわけですよ。

田中: 『クロコダイル・ダンディー』も、ニューヨークに行ってるんですよ。「星の王子」も「ニューヨークに行く」。80年代以降は、やっぱりとりあえず都会と言えばニューヨークへ行くんですね。まあでもやっぱりそういうのが出てきているのって、なんにせよ80年代なのがちょっと興味深いと思いますね。多分70年代までそういう風に描かれなかったんじゃないかな。あの、ハリウッドの大作って、90年代以降、2000年代に入ってから結構リメイクされているのがありますよね。『ポセイドン・アドベンチャー』(ジーン・ハックマン他、ロナルド・ニーム監督、20世紀フォックス、1972年)とか、『タワーリング・インフェルノ』(ポール・ニューマン、スティーブ・マックイーン主演、ワーナー・ブラザース/20世紀フォックス、1974年)とか。70年代版は、「ノブレス・オブリージュ」の高貴の人が自己犠牲を払う物語で、身分のある人が自分はいいからあなたが逃げなさいが旧作で、リメイク版は逆に身分のある人たちが「オレからオレから」みたいな感じになって、みんなにバッシングを受けるエピソードになっている。かつてはあらまほしき物語が共有されたけど、近年になるほど、ぶっちゃけみたいな話になって、あるところを境界として価値観が大きく変わってきている、あるいは建前から本音へといった流れの中での『クロコダイル・ダンディー』的なものの必然的な登場ととれば、ベタな中央にカウンターの周辺に価値を見出していることになるので、「方言萌え」的感性の前景化は、日本語社会だけの問題じゃないということになりますよね。

金水: まあ、そうですよね。

目次に戻る

◆最初は方言キャラではなかった「坂本竜馬」

金水: リョウマはどうなんですか。そういうタイプとはまた違うんですか。幕末には特別な条件があるっていう。

田中: やっぱり「坂本竜馬」は高度経済成長期と重なっているからこそって思うんですね。結局、前進座にしても方言狂言にしてもなんにしても、あの時代にドバーッと出てくるとなると、やっぱり上京青年が大量にきて、進学したり就職したりしてきたことと、ものすごく関係があるんだという。脱藩して、世の中変えてやろうっていう志を持って、まあ多くの人が出てきた、だけどまあそううまくはいかない。リョウマは暗殺されて、志半ばで死んでるから、そういう意味でも、高度経済成長期の上京青年たちのアイコンになる資格は十分ですよね。司馬遼太郎って人の選球眼がすごくよかったっていうことなのかなと思うんですけれども。

金水: そうですね。まあ司馬遼太郎自身が大阪の出身だっていうのがあるかもしれません。

田中: 司馬遼太郎は、いろんな有名無名の人たちを素材に書いていますけれど、「坂本竜馬」は最初から方言キャラだったわけじゃないんですね。『「方言コスプレ」の時代』の中で書きましたけど、『竜馬がゆく』の竜馬は、最初は書生ことばでもなくて、「〜 ですな」とか、おじさんことばみたいなのをしゃべっていて、竜馬が物語の中で活躍し始める頃から土佐弁要素が入ってくる。『竜馬がゆく』は、夕刊の連載小説でしたから、リアルタイムで読者からの反応とかを取り入れつつ、やってたんじゃないのかな … 。おじさんことばから土佐弁キャラにしたところで、いわゆるキャラが動き始めるという感覚を得たのではないかと。あくまでも想像ですけど。そして、それは上京青年たちの心情を写すにはぴったりのものだというのが司馬遼太郎には書きながら、あったのではないかと。それが1968年放送の NHK 大河ドラマ『竜馬がゆく』になると、竜馬はもう最初から、いきなり方言キャラとして造形されています。それがリョウマ=土佐弁キャラ確立の背景ですよね。上京青年の青雲の志を写す鑑としての方言ヒーロー・リョウマの誕生です。とはいえ、方言ヒーローは西郷さんも含め、やっぱり基本は低位の男性で、結局は中心を目指したけれども中心にはなれなかった、あるいはなろうとしなかった人がやっぱり方言キャラの位置づけなんですかね。

金水: まあ、そうですよね。

田中: 金水さんのクラス3になっちゃうかもしれないですけどね。

目次に戻る

◆方言キャラになりにくかった大久保利通

金水: 西郷さんと同じ薩摩出身の大久保利通はあんまり方言キャラとして出てこないですよね。

田中: 従来は、ですよね。NHK 大河ドラマ『西郷どん』(2018年放送)では、大久保は明治になってカイゼル髭を生やして、洋装になっても対薩摩人に対しては薩摩弁のままですね。外遊からの帰国後は、他郷の人には薩摩アクセントを残す共通語・同郷の人には薩摩弁というシフトキャラとして造形されているようですが。これは、単なる従来の大久保=共通語 vs 西郷=薩摩弁という言語変種とキャラの対応からの逸脱を話題にしようという狙いだけでなく、西郷 vs 大久保を中央=共通語 vs 野=方言という対立として描くのではなく、同郷同士の志の違いを鮮明化するためにわざわざそうしたんじゃないでしょうか。最終回1回前の2018年12月9日放送の「西南の役」の回では、九州各地の方言についてのことば指導を薩摩、宮崎、北九州と3種も導入していて、九州各地における九州人同士の内戦としての悲劇性を強調しているように見えました。

金水: 大河ドラマでこれの前に西郷さんが出てきたのは、なんでしたっけ。

田中: 『翔ぶが如く』(1990年放送)までは遡らないですよね。

金水: ああ、『篤姫』(2008年放送)です。

田中: 『篤姫』では大久保利通はどうだったんだろう。

金水: ネプチューンの原田泰造がやってましたけど、若い頃は薩摩弁キャラですよ。だから、成功したあとどうなったのか。ちょっと忘れちゃったけど。

田中: 2018年放送の『西郷どん』で大久保利通に方言を残しているのはわざとだと思いますね。従来の利通とは違う描き方をします的な形でやっているんだと思うんですけれど。

金水: そうですね。だからもう今は、完全に方言を強調することで話題性を作るみたいな。

田中: 一面は、明らかにそうですよ。

金水: 手法ができているから、今まで方言じゃなかったキャラクターをこれ実は方言でしょうみたいな役作りっていうのはありますよね。

田中: 『八重の桜』(2013年放送)では、板垣退助にさえ、「わ、わしは死んだち、自由は、自由は死なんぜよ!」って言わせているんですよ。いやいや。まあ実際には、どう言ったのかは、さっぱりわかりませんが。同じ藩の出身キャラは、同じ方言じゃないとおかしいんじゃないか、という、よくわからない変な、キャラクター性を超えた嘘リアリズムみたいなものが投影されているような気がします。

目次に戻る

◆『八重の桜』と朝ドラヒロイン

金水: 活歴みたいなもの、まあそういうのは『八重の桜』もそうですかね。だから、2014年のシンポジウムで話に出ましたが、『八重の桜』のヒロイン八重は生きる場所が変わっても、変わらない会津の心みたいなものをあの八重の会津ことばが象徴している、そういうことですね。

田中: 八重は、ある種、NHK の朝ドラのヒロインと同じ。あ、でも、朝ドラのヒロインは、『おしん』(1983年放送)がもうひとつの典型ですが、大人になって成功していくと方言キャラが共通語キャラに変貌していくパターンがありますね。けれども、近年のヒロインはやっぱり結構方言一貫キャラですよね。だからどちらかというと八重がいつでもどこでも会津弁一貫キャラなのは、朝ドラのヒロインタイプのもののような気がします。八重は女性だったから、この朝ドラヒロインタイプとしての一貫キャラなのか、リョウマや西郷さんのような幕末方言ヒーロータイプとしての方言一貫キャラを目指したものなのか、そう言われてみると微妙な感じですね。でも、あれはやっぱり「八重推し」だったから、わかりやすくずっと会津の心=会津弁といった一貫した会津弁のキャラだったんでしょうね。脚本家にインタビューしたわけじゃないのでそこはあれですけれど。

金水: そうですね。脚本家っていうかプロデューサーの考えっていうか。

田中: そうですね。ドラマの撮影に入る前の考証会議で、台詞の方向性はほぼほぼ決まるって、NHK の吉川さんや大森さんがシンポでも話してらっしゃいましたからね。おそらく、だから2018年の『西郷どん』はかなり早い段階で、視聴者にわかんなくてもいいから濃い方言でやって、さまざまなキャラクターも今まで方言キャラと言われてなかったキャラにも方言を与えて、話題作りにしようっていったようなことは決めていたんでしょうね。ことば指導の方をピックアップした番組の PR 記事などもずいぶん出してましたしね。「方言」で話題を作るという姿勢は、朝ドラの『半分、青い。』(2018年前期放送)からも強く感じました。同作の放送期間中、岐阜放送局ご当地サイトで「使える! 岐阜ことば講座」を岐阜ことば指導担当者(尾関伸次)監修で連載していたことや、放送前にヒロインの口癖は「ふぎょぎょ」ということを強調していたりしていて、『あまちゃん』の「じぇじぇじぇ」ふたたび!的な印象を受けました。

目次に戻る

◆時代劇戦国武将の方言キャラ

金水: だからそういうのが、つまりその、方言ドラマセオリーみたいなのが確立しつつあるわけじゃないですか。で、時代劇セオリーみたいなものが確固としてあったわけですよね。それが方言ドラマセオリーが時代劇セオリーをだんだん侵食していくというのは興味深いところですけれど、それは幕末が限度なのかどうか、それともさらに遡るのかどうかっていうのが興味深い。だから、戦国まで行ったら、それこそあれですよね。あの清水義範の世界(『金鯱の夢』[集英社、1989年]他)であって、それはそれで面白いんですけど、それは結局清水さんは笑わせようと思ってそれをやっているんだと思いますけれど。

田中: 天下人キャラだと方言はなじまないということでしょうかね。秀吉・信長・家康のうち秀吉は『真田丸』(2016年放送)でも人たらし的キャラを起動しているときは方言キャラとして描かれましたが、基本天下人キャラは共通語キャラですよね。信長も「うつけ時代」は方言キャラとして造形されることもありますが、天下人の信長が方言キャラとして造形されたテレビ時代劇はあるんでしょうか? ギャグとかではなく。尾張弁・三河弁・名古屋弁のイメージと天下人はなじまない、ということなんでしょうね。『真田丸』でも、同時代を背景とする古田織部が主人公の漫画『へうげもの』(山田芳裕『モーニング』講談社、2005年38号〜2017年53号連載)でも、秀吉の正室の「寧」や「おね」は「方言キャラ」(尾張弁キャラ)ですから、「方言」は女性性あるいは非政治性のマーカーなんでしょうね。

『へうげもの』の「方言」の使い方として興味深いのは、島津家とその家臣たちです。みんな全部方言キャラで出てきますが、他郷の人にはわからないことを示すために、吹き出しの中の方言台詞は文末表現以外は、太めの筆書きみたいな書き文字描線で「〜〜〜」とされています。「〜〜〜〜、ごわす」みたいな感じです。これは、「一聴してもわからない方言」の漫画台詞表現としてすっごくうまいな〜と思っています。

話を戻すと、時代劇の戦国武将は、ほんとだったらみな地方生育だから、全員方言キャラでもいいのに、ほとんど方言を与えられない。

しかし、近年ではギャグマンガとかゲームとかでは戦国武将も方言キャラ化している事例が少なくないですが、これは新しいトレンドと言っていいのではないでしょうか?

金水: そういうのは戦国時代の英雄でも結構、方言が使われているんですよね。

田中: それは、ゲームとかやる人たちが若者なので、わかりやすいキャラ立てツールとして「方言」が使われてるってことなんですかね。

金水: そうですね。わたしの授業で、『殿といっしょ』(大羽快『コミックフラッパー』メディアファクトリー、2007年〜2017年)という漫画を取り上げた学生がいて。

田中: 『殿といっしょ』! 4コマギャグ漫画ですね。わたしの授業でも方言キャラを指摘する課題を出すと、『殿といっしょ』、うちの学生も言ってきますよ。

金水: あとゲームで、『戦国 BASARA(バサラ)』シリーズに出てくる今川義元はお公家キャラ。

田中: ああ、ゲーム。ゲーム由来とかゲームに親和性の高いコンテンツとか、やっぱり方言キャラ出てきますよね。女子に人気の『刀剣乱舞』とそのミュージカル版などとかも、あれは刀ですけれども、でもその持ち主が龍馬だったら「ぜよ」っていうし、それはやっぱりゲームってキャラも多いし、物語以前にキャラ立てが必要だから、方言がキャラ区分のわかりやすさツールなんですかね。

金水: もちろんそうでしょう。結局、ゲーム的なキャラクターって生い立ちみたいなものがほとんど描けないので、もう一発でキャラ立ちさせないといけないので、だからもう借りてくるんですよね。借り物のキャラを適当に持ってきて。

田中: そうか、そう、そうですよね。だからやっぱり役割語の話に戻っていくわけですけれども、一発でそのキャラが何由来なのか、とりわけ土地との結びつきといったことを説明するには「方言」がわかりやすくて丁度いいパーツだということですよね。

金水: そうですね。

目次に戻る

◆「テニミュ」と方言キャラ

田中: 結局はそういうことなのか。しかし、それは結局モブキャラに方言キャラが多いといったことと全く同じことだと思うんですけれど、ゲームもキャラクターいっぱい出てくるし、いわゆるバトルもののキャラクターいっぱい出てくるし。まあ『ジャンプ』系列とかのバトルものとか、ゲームものとかに方言キャラが多いというのは当然ですよね。さっき、ゲームで『刀剣乱舞』のところで方言キャラが出てくると言いましたが、それに限らず、別タイトルにもすごくたくさん出てきます。2.5次元で女子に大人気の『テニスの王子様』のミュージカル、通称「テニミュ」でもすごい使われています。2.5次元マスターのゼミ生に教えてもらいながら、2.5次元についてちょっとずつ勉強しているところなんですけれども。そのゼミ生によれば、オリジナル作品の同一キャラクターに与えられていた方言の濃度よりも、ミュージカルの方がより濃い方言が与えられていることもしばしばなんだとか。それから歌い上げる歌も、方言でベッタベタに歌うものが増えているような気がするそうです。しかも、そのステージ上の台詞でも「方言濃すぎて何言ってるかわかんない」でも「わかんなくていいんだ」みたいな、ノリツッコミ的やりとりもあるようで。方言が使われていて何言ってるかわかんないけれどもその方言っぽさ、非標準的な方言っぽいものがそのキャラらしさとして認識されているので、何を言っているかはともかく、方言キャラが方言台詞をしゃべると、「萌え 〜 」ということになるようです。そう言えば、ミュージカルの歌って、これヒップホップもそうなんですけれど、台詞の時には方言は入るけれども、歌には方言は入らない。ヒップホップもラップのところは方言入るけど、歌い上げるところでは方言は入らないというのがどうも元々の構造のようなんですけど。最近、ミュージカルもヒップホップの「歌」部分にも「方言」入り込んでいるケースが目に耳に付くようになりました。

「Web 版! 読み解き方言キャラ 第7回 メディアミックスと「方言キャラ」:『幕末太陽傳』篇」で触れましたが、宝塚でも『幕末太陽傳』とかは歌っている時にも長州弁要素がガンガン入ってきている、でもそれ以前のものは歌の部分の時は完全に共通語。歌の時は共通語になるんですね。

金水: これ結局あれですよね。歌っていうのは心理描写だから、心理描写って伝統的に標準語って決まってましたからね。それはナレーションが標準語だというのと多分一緒だと思うんだけど。

田中: だから大河ドラマでもナレーションは共通語だったのが、『翔ぶが如く』で方言ナレーションになり、といったようなこととかも、心理描写ではありませんが筋ですから最初は共通語、あとから方言という流れなんですね。『日本語スタンダードの歴史―ミヤコ言葉から言文一致まで―』(野村剛史、岩波書店、2013年)でも、近代の煩悶青年の心情を文学において語るためのツールが標準語であったと述べられています。心情吐露は「共通語」が基本なんですね。でも、標準語での心情吐露がいわば陳腐化してしまうとそうじゃない、あたかも本音、本音的な感じの方言ナレーション的な感じで、方言文学・方言詩とか歌謡曲とかミュージカルの歌のところにも方言は入ってきたりとかするってことなんでしょうかね。そう考えると第158回芥川賞受賞作の『おらおらでひとりいぐも』(若竹千佐子、河出書房新社、2017年)は、ソトに出す声もウチの声も「方言」、しかも「東北方言」なので、近代化の象徴である煩悶青年の心情吐露とともに成立してきた標準語文学からは、これも遠い遠いところに来たということがわかりますね。

V 方言についての話題も尽きませんが、年忘れ対談はここまでとして、続きは新春対談にて、たっぷり V 日本語の課題を語り合いましょう。

金水: 田中: 「金水×田中の V 方言キャラ・年忘れ特別対談編」、最後までお読み下さり、ありがとうございました。みなさまにおかれては、安寧な年越しとなりますように。来る年もどうぞ、よろしくお願い致します。

目次に戻る

 

次回は掲載場所を移動します。「〈役割語〉トークライブ! 第9回 V 時代語@時代ならびに翻訳・新春特別対談編」(2019年1月号)にてお目にかかります。同時に、次回の「Web 版! 読み解き方言キャラ」第10回にて、この対談の番外編を掲載します。お楽しみに♪

 

 

金水 敏(きんすい さとし)

 1956年生まれ。博士(文学)。大阪大学大学院文学研究科教授。大阪女子大学文芸学部講師、神戸大学文学部助教授等を経て、2001年より現職。主な専門は日本語文法の歴史および役割語(言語のステレオタイプ)の研究。主な編著書として、『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』(岩波書店、2003)、『日本語存在表現の歴史』(ひつじ書房、2006)、『役割語研究の地平』(くろしお出版、2007)、『役割語研究の展開』(くろしお出版、2011)、『ドラマ方言の新しい関係―『カーネーション』から『八重の桜』、そして『あまちゃん』へ―』(田中ゆかり・岡室美奈子と共編、笠間書院、2014)、『コレモ日本語アルカ?―異人のことばが生まれるとき―』(岩波書店、2014)、『〈役割語〉小辞典』(研究社、2014)などがある。


田中 ゆかり(たなか ゆかり)

 1964年生まれ。神奈川県生育。日本大学文理学部教授。博士(文学)。専門は日本語学(方言・社会言語学)。著書に、『首都圏における言語動態の研究』(笠間書院、2010)、『「方言コスプレ」の時代――ニセ関西弁から龍馬語まで』(岩波書店、2011)、『方言学入門』(共著、三省堂、2013)、『ドラマと方言の新しい関係――『カーネーション』から『八重の桜』、そして『あまちゃん』へ』(共著、笠間書院、2014)、『日本のことばシリーズ14 神奈川県のことば』(編著、明治書院、2015)、『方言萌え!?――ヴァーチャル方言を読み解く』(岩波ジュニア新書、2016)など。

 

 


〈注〉

[1] 1931(昭和6)年に歌舞伎界の若手俳優たちが、演劇の革新と生活の向上を目指して創立した劇団。歌舞伎俳優の他、新劇俳優なども参加した。演劇上演に加え、映画制作も行った。ユゴーやシェイクスピアの翻訳劇などの全国巡演を行い、学校公演などでも親しまれた。

[2] 山田奨治(編著)(2017)『マンガ・アニメで論文・レポートを書く―「好き」を学問にする方法』(ミネルヴァ書房)第11章(金水担当)「言語―日本語から見たマンガ・アニメ―」246頁で示した、フィクションに現れるキャラクターの3分類を指す。クラス1は主人公・準主人公で内面描写が豊富であり、言葉遣いは標準語を基調とする(役割語セオリー)。クラス2は主人公に絡む重要な登場人物で、スタイルのヴァリエーションが豊富で、個性的で印象的な言葉遣いをするキャラクターはここに入る。クラス3はいわゆる“モブ・キャラ”で、役割語も含めて“印象に残らない”言葉遣いをする。

 


 

 

関連書籍

〈役割語〉小辞典

▲ページトップに戻る

複写について プライバシーポリシー お問い合わせ

Copyright(C)Kenkyusha Co., Ltd. All Rights Reserved.