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第6回

 

サービ

 

 「サービス」というカタカナ語には一般的にどのような意味があるだろうか。日常的に使う言葉としては、「この漬け物はサービスですから」とか、「水はセルフサービスでお願いします」といった用法がすぐに思いつく。この場合、サービスとは無料であること、モノや労働を無料で提供すること、または奉仕することを意味している。その一方でもちろん、「あの店はサービスがなっていない」といった場合には、接客のことを意味している。この場合、接客は対価をともなうものであるから、無料の奉仕ではない。

 まず提起してみたい疑問は次のようなものだ。この二つの「サービス」は完全に切り離されているだろうか? つまり、無料の「奉仕」と、対価をもらってしているはずの「接客」という意味でのサービスは? まずは、前者は無償であり、後者は有償なのだから、それらは別のものに思える。だが、現在この「サービス」という言葉が持つ社会的な意味は、これらの二つのサービスが絶妙に区別できないところにその本質を持っている。それはどういうことなのか。考えていこう。

 

奉仕としてのサービスとその主人たち

 確かにサービスは、無償の奉仕という意味から出発しているように見える。英語の単語の歴史的な用法を知ることができる『オクスフォード英語辞典』で service の項目(一つ目の名詞の項目)を見てみると、英語での最初期の用法は12世紀から13世紀である。特徴的にも、これらの最初期の用法は、まずは神への奉仕もしくは礼拝や宗教的日課という意味での service(divine service)である。サービスは、まずは神へのサービス=奉仕であった。

 この後のサービスの歴史を考えるにあたって決定的に重要になるのは、サービス=奉仕が誰に対する奉仕なのか、という点である。再び『オクスフォード英語辞典』を見ると、「神へのサービス」の意味が出てきた12世紀につづいて、13世紀には主人(master)への奉仕という一般的な意味が生じている。主人とはもちろん、領主や王である。

 興味深いのは、現在であれば公務員(public servant)の行う公務(public service)の意味も、13世紀には生じていることである。この場合はもちろん、王への奉仕(兵士としての奉仕など)が公務となるわけだから、近代における国民国家の公務員とは少し違うのだが、もちろんそこに連続性はあるのだろう。公務(員)については、近代において非常に重要な意味の転回があるが、これについては結論近くで述べる。

 ここまでの service は、まだ日本語の「サービス」とはかけ離れているように思える(ただし、「無料」という意味のサービスは、ここまでに出てきた「奉仕」の意味から生じたのだと推測はできるが)。私たちがサービスと言う時にまず想起する商業的なサービス、レストランであれ、小売店であれ、顧客に対するサービスという意味が出てくるのは、やはりそれなりに時代が下ってからである。給仕という意味のサービスはさすがに早く14世紀には生じているが、物質的な財の供給(小売りだけでなく、水や電気といったものも含む)の意味でのサービスは、主に19世紀以降の用法である。

 

サービスからサービス業へ

 要するに、サービスとは領主や王への奉仕から、国民への奉仕(近現代的な公務)、そして顧客への奉仕へと、意味を(重なりあわせつつも)変遷させてきたわけだ。奉仕をする相手が変遷してきたのだ。

 だがここでひとつ、決定的に重要な「サービス」の意味を指摘したい。ここで依拠している『オクスフォード英語辞典』では31番の d の経済学用語としての意味である。その定義を日本語に訳すと、「消費者の需要に対する供給を行うが、何ら有形財を生産しないような経済の部門」である。つまり、サービス業もしくはサービス部門のことだ。この意味の最初の用例として『オクスフォード英語辞典』が挙げるのは1936年、『ディスカバリー』誌からのものである。この例文自体が興味深いのでここに訳出してみる。

資本財と流通財とのあいだの区分はもちろん、経済学全体にとってもっとも重要な区分の一つではあるが、現在全労働人口の40パーセントを占めると見積もられる、「サービス業」従事者の数の顕著な増加は、それほど一般的に認識はされていない。

そして、『オクスフォード英語辞典』が現在挙げている最新の用例は1972年の『会計士』誌からで、これも訳出してみると下記の通りである。

サービス業が全体において重要な役割を占める経済では、製造コストの重要性は減少しつつある。

 興味深いのは、この意味でのサービスの最初と最後の用例がいずれも、経済においてサービス業やサービス労働の占める割合が増えていることを指摘している点である。事実、サービス業といえばまずは思いつく飲食業などの接客業だけではなく、メディアや IT の情報産業、教育、介護、法曹や金融業、流通、さらにはこの後の論点にも関わるが、「行政サービス」に分類されるものまで含めると、サービス業従事者の割合は(少なくとも先進国では)増加し続けている。これは単なる偶然だろうか。

 少なくとも言えることは、サービスという言葉の意味のシフトには、この二つの引用文が示しているような経済・産業構造の変化が反映されていることだ。それが正しいとして、問うべきなのは、それではその変化は単に量的なものなのか、それとも私たちの社会や生活を質的に変化させているものなのか、ということだろう。

 

ポストフォーディズムと二つの疎外

 これらの引用は、ポストフォーディズムと呼ばれる状況もしくは生産体制が、かなり早い段階(一つ目の引用の1930年代)から進んでいたことを示しているだろう。ポストフォーディズムの重要な側面は、経済の非物質的生産への重点移動である。第三次産業、さらには第四次産業へのシフトと言ってもいいだろう。フォーディズムがその名の通り、フォードによる消費財の大量生産の体制であったなら、ポストフォーディズム的生産は物質的に何かを生産するわけではない。それは顧客サービス、情報サービス、教育といった形で、非物質的な需要を満たす。

 このシフトが量的な変化なのか、それとも質的な変化なのかという、先ほど提示した疑問については、もちろんそのような大きな疑問に一義的な答えを出すことはできないけれども、私たちの労働のあり方、その中での疎外のあり方には質的な変化が起きているとここでは考えてみたい。

 労働における疎外といえば、もちろんマルクス(『経済学・哲学草稿』)によるその理論化が出発点となる。疎外とは簡単に言えば「本来のものではなくなること」である。マルクスは、資本主義下での労働者は、労働の生産物がみずからのものとはならないという物質的な疎外、そして労働という行為そのものが労働者自身のものではなくなるという人格的疎外が労働者に起こっていることを指摘した(93頁)。では、それらが労働者自身のものでないのなら、誰のものになるのか。もちろん、資本家である。

 これは、本稿の文脈ではまさにサービス=奉仕の問題として捉え返すことのできる問題である。資本主義下では、労働者は資本家に奉仕せねばならない。それが疎外の源となる。

 しかし、これと同じことがポストフォーディズム的な資本主義、というのが広げすぎならば、サービス部門について言えるだろうか。おそらく、客観的には同じことが起きているはずだ。サービス業であれ、労働者は資本家に雇用されて「奉仕」している。サービス業従事者の疎外とは、自分ではなく資本家のために労働をすることに由来する疎外だと、客観的には言える。

 だが、主観的には少し事態が異なる。これは再び、サービス=奉仕のあり方の違いとして考えるといいだろう。サービス業の多くは、顧客を直接の相手とする労働を中心としている。そしてここで大事なのは、サービス労働には、先に確認したような奉仕=無償労働の残滓が、それがたとえ有償労働だとしても、つきまとっていることだ。サービス労働者の主観の中では、直接に対峙する顧客への「奉仕」がまず中心に来るだろう。そして、まさにそのために、労働者が本当は資本家に「奉仕」しているという事実が意識から覆いかくされてしまう。これが、ポストフォーディズムにおける独特の疎外の様態である。

 このことは、ブラック企業と呼ばれた飲食業やアパレル業の労働のあり方を考えればよく分かるだろう。それらの企業では、資本家に奉仕するはずの労働者は、その事実を忘れて、むしろみずからを資本家と見立てて、顧客に対峙することが求められる。ユニクロで問題になった名ばかり管理職は、そのようなあり方の典型である。

 

奉仕と連

 この疎外のあり方は、マルクスの述べた標準的な疎外と比べて、さらに困難なものである。なぜなら、労働者は、顧客への奉仕という(虚偽)意識のために、資本による労働の搾取の事実からさらに遠ざけられ、その事実に気づきにくい。それが意味するのは、労働者が、共通の搾取の経験を根拠とする連帯からも遠ざけられるということだ。

 いま使った言葉、「連帯」は、奉仕としてのサービスを考える際のキーワードである。レイモンド・ウィリアムズは『文化と社会』の結論の、「コミュニティの観念」という節で、「サービス」の観念について論じている。ウィリアムズにとって、サービスとは高級官吏(upper servants)のイデオロギーだ。それは、労働者階級出身のウィリアムズが奨学金でケンブリッジ大学に行って初めて出会った、王を中心とする国体と階級秩序への「奉仕」の保守的観念だった。最初に述べた「公務」としてのサービスは、封建時代から国民国家時代へと連続している。それが前提とするのは、平坦な国民共同体ではなく、階級社会なのである。それにしても、中・上流階級の個人が、彼らにとっての社会秩序へとつながる方法として、サービス=奉仕はコミュニティの想像/創造の一つの方法であったことは確かだ。だが、ウィリアムズはそのようなコミュニティと、「連帯(solidarity)」や「相互の責任(mutual responsibility)」によって立つコミュニティとをあくまで区別する。後者は、「奉仕」を軸とする中産階級的なコミュニティとは区別される、労働者階級のコミュニティだ。

 サービス=奉仕の対立物としての連帯。このアイデアは現在においてサービスについて考えている私たちに大きなヒントを与えてはくれる。だが、現在の苦境とは、前節で見たポストフォーディズム的疎外によって連帯そのものが不可能になっている状況である。そして1958年に書いていたウィリアムズ自身も、労働者階級コミュニティの基盤としての連帯の弱まりと解体に直面していた。実際、『文化と社会』の結論では、労働者階級に「奉仕」の観念が浸透していることや、新たなメリトクラシー(「梯子」の隠喩で表現される)によって社会の共通の改善(common betterment)の観念が弱体化していることが述べられる。

 だが少なくとも、ウィリアムズを経由することで次のような問題設定は見えてきたようだ。すなわち、ポストフォーディズム的な疎外状況において、その中心となっている独特の奉仕=サービスの観念に対抗するような連帯はどうやって構想できるのか、という問題設定である。

 

「消費者民主主義」の悪夢から労働者と消費者の連帯へ

 ポストフォーディズム的疎外の熾烈さの原因は、サービス労働が顧客=消費者を直接の対象とすることに起因する。サービス労働者の労働生産物は、消費者の需要の満足そのものであり、良きサービス労働者とはあたかも自発的な奉仕であるかのごとく、その満足を生み出す労働者だ。

 その中で、消費者の存在が労使関係に大きく介入してくることになる。どういうことか。それを、顧客=消費者の視点から考えてみよう。現在、消費者が置かれている社会的状況を「消費者民主主義」と呼ぶことができるかもしれない。消費者民主主義というと、政治がマーケティングの対象となり、商業のように運営されることを意味することもあるが、ここで言っている消費者民主主義とは、私たちにとって、政治的な選択(例えば投票)よりも、消費の選択の方が大きな社会的意味を持ちうるような状況のことである。ここで言う選択とは、どの石鹸を買うか、どのコンビニで買うか、といった水準での選択にはとどまらない。新自由主義下で「市場」の領域がますます広がっていく時に、例えば鉄道や水道や電気や郵便や電話といった、かつては公共的に運営されてきたものを、消費者のように/消費者として選択することを、私たちは迫られている。そういう状況を消費者民主主義と呼びたいのだ。もちろん、これが深化していった時に、行政や政治そのものに消費者として対峙するような、上記の別の意味での消費者民主主義が生じるだろう。

 消費者民主主義的なメンタリティの一つの表現に、クラウドファンディングがある。クラウドファンディングはその場限りの特定の目的に、インターネットで資金を募る方法である。簡単に言って、クラウドファンディングは新自由主義と親和的だ。なぜならそれは、税金という形で資金を集め、代表者の集まった議会でそれをさまざまな目的に振り分けるという従来の政治にとってかわるものだからだ。例えば子ども食堂、医師不足になった救命救急センター、がん治療などのクラウドファンディングを考えてみればよいが、それらは本来、行政が(税金で)行えばよいものなのだ。現在、目的に紐付けられない税金よりも、個別の目的に紐付けられたクラウドファンディングの方が意識の高いものと思われていないか。そこには、公共の目的のための税金ではなく、消費者のように自分がコミットする目的を選択するクラウドファンディングの方が正しいという感情がある。

 さて、そのように、全面化する市場の中で、消費の選択こそが政治的な選択となりつつあるとして、サービス労働はそのような選択の圧力に直接にさらされる労働だということになる。このことは二面的なものとして捉えられるべきだろう。一面において、そのような意味でのサービス労働は悪夢のごとき労働である。これについては、ポストフォーディズム的疎外という言葉で説明したとおりだ。労働者は、消費者民主主義的な観点を、消費者による選択の自由こそが現在ありうる政治的自由だという見方を、内面化して労働に臨まなければならない。繰り返すが、サービス=奉仕の関係が労働者と顧客との関係に収斂することで、真の搾取関係は隠蔽される。

 だがこの事態はもう一つの見方が可能である。それは、現在、消費と選択の場が政治的な場として開かれているかもしれないということだ。そしてそのような場の主要なアクターは労働者と使用者ではなく、労働者と消費者であり、そこで思考すべきはこれら二つのアクターのあいだの連帯かもしれないのだ。もちろん、これは楽観のそしりを免れないだろうし、消費者民主主義を政治の場として認めてしまうことは、資本主義という大前提の肯定になるという問題は見据えるべきだ。だが、奉仕=サービスの煉獄を抜け出すための現在与えられた論理的帰結は、労働者と消費者との連帯、これをおいて他にあり得ないだろう。

 実際に、現在起きているストライキにおいて、消費者は重要な役割を占めつつある。従来であれば、消費者はストライキに対して敵対的になりがちであった(鉄道労働者のストライキを単に「迷惑」と捉える利用者)。しかし、例えば2018年8月に自動販売機のジャパンビバレッジ東京の労働者が起こしたストライキには、 SNS 上で自販機の潜在的な利用者たちから好意的な意見が集まった。また、サービス業の煉獄の典型ともいえる学校教育においても、その「消費者」=生徒と教員の連帯という事例が見られるようにもなっている。[1]

 私たちは常に、労働者であると同時に消費者でもある。そうであることから逃れられない。ところが、私たちは消費者となる時に、自分たちが同時に労働者であることを忘却して、サービス=奉仕の純然たる受け手へと変貌し、サービス労働者の監視者となる。これこそが現在の資本の狡知なのである。お客様は神様ではない。労働者でもある人間だ。サービス労働者がそうであるのとまったく同程度に、人間なのである。

 

 

 


〈注〉

[1] これについては、雑誌『POSSE』vol. 42(2019年7月)の特集「ストライキが変える私たちの働き方」、特に浅見和彦へのインタビュー「サービス業時代の「新型ストライキ」とは」を参照。

 

〈引用文献〉

マルクス、カール『経済学・哲学草稿』城塚登・田中吉六訳、岩波文庫、1964年。
Williams, Raymond. Culture and Society: 1780-1950. Chatto and Windus, 1958.

 

 

河野 真太郎(こうの しんたろう)

 専修大学法学部教授。専門はイギリスの文化と社会、新自由主義と文化。著書に『戦う姫、働く少女』(堀之内出版、2017年)など。共編著に『愛と戦いのイギリス文化史――1951-2010年』(慶応義塾大学出版会、2011年)など。訳書にレイモンド・ウィリアムズ『共通文化にむけて――文化研究I』(共訳、みすず書房、2013年)『想像力の時制――文化研究II』(共訳、みすず書房、2016年)など。

 

 


 

 

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