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様々な荷物入れ (インド英語探検記 10)

様々な荷物入れ (インド英語探検記 10)

カテゴリ : 
くもの舌 (言葉について気が付いたこと、考えたこと)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2012-8-28 20:30

8月の始め、インド・ゴアに来てまもなく訪れた田舎の高校で、生徒たちに講義したとき、日本の簡単な紹介の他、世界の中の英語についても話した。生徒たちに「どうして英語で勉強していますか」と聞いたら、「英語はグローバルな言語だから」という返事がすぐ返ってきた。しかし、「どの英語で勉強していますか」と聞いたら、私の質問の意味がわからなかったようだ。

実際、私がインドに招待された時には、最近日本などの英語教育者の間で議論になっている World Englishes を直に体験できるという期待が増した。World Englishes は文字通り、「世界の中に複数の英語が存在する」ということを積極的に認める運動だ。すなわち、英語は今まで考えられたように英国(または英国と米国)のネイティブたちだけの言語ではなく、様々な国や地域で様々な人々によって使われている、様々な語彙や文法や発音を持つ言語だ、という概念である。

World Englishes の概念を推進している英語教育者たちは、主に二つのことを主張をしているようだ。一つは、英語の多様性を認める教育が学習者に役立つという、プラクティカルな考えだ。例えば、日本人に英国人または米国人だけの英語を教えると、フィリピン人、シンガポール人、インド人などと英語で話そうとするときに、英米語と違う発音や表現がコミュニケーションの妨げとなる。特に、世界中で英語を日常的に使うノンネイティブがネイティブより多いと推測されているから、学習者たちを様々な英語に慣れさせることこそが英語教育者の義務だという主張である。

もう一つの主張は、政治的、イデオロギー的な面が強い。英語がグローバルな言語になったのは、イギリスやアメリカの帝国主義の結果にすぎない。各国で英語が第1言語でも第2言語でも喋られるようになったので、それを無理にやめさせるわけにはいかないが、旧帝国の言語的な支配、特に白人ネイティブの有利な立場を認めるわけにはいかない。英語の所有権は英語を使う人が持つ、という考えだ。

インド・ゴアに来てから、高校や大学で英語教育に携わっている先生に何人も会っているが、World Englishes という概念について強い意見を誰も持たなかったようだ。もちろん、イギリス英語、インド英語、アメリカ英語などの間に違いがあるとわかっているが、例えばインドでもイギリス英語を模範にすべきだ、またはインド人が使う英語を正しいとすべきだ、といったコメントは聞かなかった。私の滞在期間がもっと長かったら、違う意見も聞いているはずだが、この一か月では言語についてイデオロギー的な意見を聞いたのは1961年までの植民地時代にゴアの公用語だったポルトガル語と多くのゴア人の母語であるコンカニ語についてのみだった。

その高校では World Englishes を説明するために黒板に車の絵を書いた。その後尾にある荷物入れを指して「これを英語で何といいますか」と聞いた。答えは多分イギリス英語の boot になると予想していたが、もしかしてアメリカ英語の trunk もあるかも知れないとも思った。でも、生徒たちが一斉に答えたのは「dicky!」だった。私には初耳だったが、後で辞書で調べたら確かにインド英語では車のトランクを dicky と呼ぶそうだ。

車のトランクは深く考えずに取り上げたが、英語の多様性を示すために最適な例だったようだ。


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