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名句の源泉を訪ねて(ラテン語さん)


第9回
panem et Circenses
パーネム エト キルケンセース
パンとサーカスを

「パンとサーカス」

 高校の世界史の授業でこのフレーズをなんとなく聞いたことがあるけれど、それが何かははっきり分からないという方が多いと思います。この「パンとサーカス」という世界史用語は、珍しいことに古代ローマの作家が作ったものです。普通は、世界史用語はその時代よりも後の人が名付けたものが元になっていることが多いからです(「五賢帝時代」など)。

 このフレーズがあるのは、ユウェナーリスの『諷刺詩』第10歌で、原文では panem et Circensesパンとサーカスを」となっています。ユウェナーリスは、連載第1回「誰が見張り番を見張るのか?」や第2回「健全な体に健全な精神」でも取りあげました。文脈を見る前に、まずは各単語の解説をしましょう。

文中の単語辞書の見出し語品詞見出し語の意味性、曲用
panempanis名詞パン男性単数対格
etet接続詞…と…
CircensesCircenses名詞キルクス・マクシムスで行われる競技男性複数対格

 panis は、日本語の「パン」の語源です。日本語へはポルトガル語 pão 「パン」あるいはフランス語 pain 「パン」を通じて入ったと考えられています。古代ローマのパンは現在の食パンのようなフワフワした食感のものではなく、かなり重くて堅いものでした。円形のホールケーキのような形をしており、ピザのような切れ目の線が入っていました。他にも panis は英語の companion 「仲間」の語源でもあります。日本語の「コンパニオン」のイメージからは離れていますが、companion の成り立ちは「共にパンを食べる人」です(フランス語 copain 「仲間」も同じ。ちなみに petit copain で「恋人」です)。

 Circenses は元は形容詞だったのですが、名詞としても用いられるようになりました。Circenses は形容詞では「長円形競技場の」という意味で、名詞の Circenses は「ローマの Circus Maximus で行われる競技」を指します(ludi Circenses が省略されて Circenses と呼ばれるようになったと考えられています)。この見世物は「競技」なので、「サーカス」という言葉から我々が想像するような、人間や動物の曲芸を見せるショーではありません(ちなみに英語 circus 「サーカス」の語源は、ラテン語 circus 「円弧、長円形競技場、競技会」です。また、カナダのケベック州に拠点を置くシルク・ドゥ・ソレイユはフランス語で「太陽のサーカス(cirque du soleil)」という意味です)。Circus Maximus は現在でも遺跡として残っています(イタリア語では Circo Massimo 「チルコ・マッシモ」)。ここで行われた競技は、主に戦車競走です。人が乗った車を馬が走って引いて、競馬のようにその速さを競いました。

市民たちが望むもの

 ここまで見てきましたが、panem も Circenses も対格の形なのです。では、それとセットになっている動詞や文脈を知るために、当該箇所を引用します。

ex quo suffragia nulli
vendimus, effudit curas; nam qui dabat olim
imperium, fasces, legiones, omnia, nunc se
continet atque duas tantum res anxius optat,
panem et circenses.

ローマ市民は、票を売るなどの行為が無くなって以来、(政治の)関心を失ってしまった。というのも昔は命令権もファスケース(高官の権力のシンボル)も軍隊も、そしてあらゆるものを市民が(任命の際に、しかるべき人に)授けていたのに、今や彼らは自制して、関心を持って望むのはこの2つだけ、つまり、パンとサーカスを

 「票を売るなどの行為が無くなって」というのは、ティベリウス帝が政務官を選ぶ際の選挙権を市民から取りあげたことを指します。つまり、「市民が選挙で政務官を選ばなくなって」ということです。投票の機会が失われた現在、市民の政治への関心が無くなってしまい、以前は市民というのは投票によって命令権などを主体的に与える立場であったのに、現在の市民が望んでいるのはパンを焼くための穀物の配給と無料で見られる戦車競技くらいであるという社会諷刺です(ちなみに、この箇所では「昔は良くて今は良くない」という趣旨のことが語られていますが、古代ローマの作家はこのテーマをよく使います)。

 この「パンとサーカス」が現在も引用される理由は、それが現代でも通用する話題だからだと思います。民衆は仮に食べ物の心配がなく、まずまずの娯楽を享受できていれば政治のことなど考えなくてもいいのでしょうか。それとも、政治に対する影響力をもっと上げようと励むべきなのでしょうか。それを2000年前の詩人から我々に対して問われている、そんな気がします。パンとサーカスだけでは満足しない、そんな人間でありたいものです。

 

〈参照文献〉

ペルシウス、ユウェナーリス『ローマ諷刺詩集』国原吉之助訳(岩波文庫、2012)。
Braund, S. M. (2004). Juvenal and Persius. Harvard University Press.
Mayor, John E. B. (1878). Thirteen Satires of Juvenal: With a Commentary Volume 2. Macmillan.
Platnauer, M. (1922). Claudian, Volume I. Harvard University Press.

 

ラテン語さん

東京古典学舎研究員。高校2年生からラテン語の学習を始め、2016年から Twitter(現 X)でラテン語の魅力を日々発信している(アカウント名: @latina_sama)。企業等からのラテン語翻訳の依頼も多数。2022年にはアニメ『テルマエ・ロマエ ノヴァエ』とノートパソコン Chromebook のコラボ CM で使われるラテン語を監修した。著書に『世界はラテン語でできている』(SBクリエイティブ、2024年)がある。

 

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