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ルーン文字の遍歴

第4回 ヴァイキングのルーン文字: 新フサルクとルーン石碑の誕生

1ヴァイキングの登場

 『アングロ・サクソン年代記』によれば、793年、イングランド北部のリンディスファーン島に「異教徒」が上陸し、略奪と殺戮を行い、修道院を破壊しました。

図版1 リンディスファーン修道院で発見された異教徒襲撃を描いた10世紀の彫刻
(出典:Hadley (2006), p. 197)

この年以降、ブリテン諸島とヨーロッパ大陸には、毎年のように、北方の異教徒が押し寄せ、略奪を繰り返しました。従来、この793年という年をもって、スカンディナヴィア人によるヨーロッパの侵略、つまりヴァイキングの時代が始まった、とされてきました。

 しかし近年の研究は、ヴァイキングの活動を、793年という象徴的な年ではなく、おおよそ750年頃に遡らせています。というのも、ブリテン諸島や大陸といった西方だけでなく、ロシアや東ローマ帝国といった東方への拡大に目を向けた場合、750年頃が一つの転換点となる証拠が次々に出てきているからです。折しも、西方では、フランク王国がメロヴィング朝からカロリング朝へと転換し、東方では、アッバース朝がバグダードに首都を置き、周囲を圧し始めた時期です。グローバルな視点を持ち込むならば、ユーラシア西部全体が大変革を迎える時代です。ヴァイキングの拡大もこうした地殻変動のなかに位置付けようというのが近年の傾向です。

 スカンディナヴィアの平野部やフィヨルド沿いで散居定住をしていた人々が、ヴァイキングとして歴史の舞台に登場する最も大きな契機となったのは、イスラーム圏から流入する銀への渇望です。マレク・ヤンコヴィアクらの研究に従えば、中央アジアにおける埋蔵量豊かな銀鉱山の開発により、まさに750年頃を境として、大量の銀貨(ディルハム)がユーラシア西部に流通するようになりました。

図版2 9世紀のディルハム埋蔵金、貨幣製造所、主要交易路
(出典:ヤンコヴィアク(2020)、45頁)

その結果、ヴァイキングもまた、クルアーン(コーラン、イスラム教の聖典)の文言などが刻まれたディルハムを求めて、イスラーム圏と接触を始めました。

図版3 サーマーン朝のアミール(総督)、イスマイール・イブン・アフマドの統治期に造られたディルハム。表側(左)と裏側(右)にそれぞれクルアーンからの言葉が刻まれている。
(ヤンコヴィアク(2020)、40頁)

略奪や交易を通じて入手した銀は、スカンディナヴィア人の世界を一変させるだけの起爆力がありました。今でも、ヴァイキングが活動した地域で発見される、ディルハムを含む大量の銀を地中に埋めた埋蔵宝が、彼らの銀への嗜好を物語ります。

図版4 ゴットランドのスピリングスで発見された埋蔵宝。スウェーデンのゴットランド博物館に展示。

結果として、彼らの社会には大きく分けて二つの変化が生じます。

 一つは北大西洋からカスピ海に至る海外への展開です。

図版5 ヴァイキングの領土の拡大。四角い枠の中の数字はヴァイキングがその地域に到達した西暦を示す。

750年以降、スカンディナヴィア人の海外への展開スピードはそれ以前と比べて段違いに早くなりました。アイスランド、イングランド、フランク王国、ロシア平原などで略奪と定住を進めると同時に、商人としての性格をもつ彼らは、さらに遠くの世界へも勢力を拡大しました。銀を得るための最大の商品は奴隷ですが、寒冷地動物の毛皮やセイウチの牙などもスカンディナヴィアの特産品でした。それらを獲得し、交換し、売買するために、冒険心に溢れたヴァイキングは、新世界を目指しました。西はグリーンランドを越えて、カナダのニューファンドランド島にまで到達したことが、アイスランド人による記録と考古学的発見からわかっています。スウェーデンの考古学者シャーロッテ・ヘーゼンシェーナ=ヨーンソンのように、中央アジア由来の産品もスウェーデンで発見されていることから、シルクロードを越えて唐にまで到達したかもしれないものもいたのではないか、と考える研究者もいます。

図版6 スウェーデンのヘリエーで発見された、中央アジア由来とされる仏像。スウェーデン国立歴史博物館に展示。

 もう一つは、故郷であるスカンディナヴィア内部における国家の形成です。現在北欧にはデンマーク・ノルウェー・スウェーデン・フィンランド・アイスランドの5カ国がありますが、10世紀半ば以前のスカンディナヴィアにはそのような国家や国境はありませんでした。各地に豪族らが割拠していたに過ぎません。しかし10世紀半ば以降、ブリテン諸島や大陸を通じてキリスト教を受容しつつあった小権力のなかからデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの三国の中核となる王権が生成しました。それらは、略奪や交易で蓄積した富(とりわけ銀)をリソースとし、新しい統治イデオロギーであるキリスト教を導入しながら、中世のキリスト教国家の基礎を築きました。

 このような、一見すると相対する二つの動き、つまりスカンディナヴィアの内部で小集団が国家へと統合される動きと、スカンディナヴィアの外部へ展開する動きは、相互に連関していました。その結果、スカンディナヴィア人の言語と文化を共有し、船舶の往来で繋がれた「ヴァイキング世界」とでもいうべき空間を紀元1000年前後のユーラシア西部に現出せしめました。8世紀から11世紀にかけて、ユーラシア世界の辺境に位置する戦士集団は、世界史変革の担い手として歴史の海原を遊弋(ゆうよく)したのです。

2新しいルーン文字

 ヴァイキング時代の開始に合わせるかの如く、ルーン文字の世界でも大きな変革が生じました。新フサルク(younger fuþark)の登場です。

 連載第3回で確認したように、スカンディナヴィア南部に出現した24文字からなる古フサルク(elder fuþark)は、ゲルマン人の拡大に合わせて、ヨーロッパ半島各地に広がり、現地で多様な姿を見せるに至りました。しかし、キリスト教の受容に伴うラテン・アルファベット圏の拡大とともに、ルーン文字が利用される空間は徐々に限定されることにもなりました。8世紀の時点においてルーン文字が用いられていたのは、スカンディナヴィアとその影響圏、イングランド、オランダ北部のフリースラント(低地地方)のみでした。ルーン文字の利用空間の限局は、ルーン文字それ自体にも変化をもたらしました。イングランドと低地地方については連載第3回で説明したように、文字数を増やしたアングロサクソン・ルーン(Anglo-Saxon fuþork)が用いられるようになりました。

 文字数が増加したイングランドと低地地方に対して、スカンディナヴィアでは、文字数が従来の24から16に縮減される劇的な変化がおこりました。これが新フサルクです。

図版7 古フサルクと新フサルク

なぜ、そのような大変化がおこったのかについて、これまで数多の研究者が解明を試みてきましたが、必ずしも明確な回答が得られているわけではありません。とはいえ、ゲルマン語が古北欧語へと分化する際に生じた音韻の変化に合わせた文字数の縮減と考えるのが穏当といえましょうか。その移行過程は容易に再現はできませんが、例えば、古フサルクでは別々の文字が当てられていた p と b が新フサルクでは一つの文字で代用されるように、一つの文字に対して複数の音価が対応するという状況が生じました。

 いずれにせよ、新フサルクもしくはヴァイキング・ルーンとよばれる16文字からなるルーン文字は、海外に展開するヴァイキングの活動とほぼ時期を同じくして出現した結果、彼らが勢力を拡大した地域において広く用いられることになりました。現在発見されているものだけでも、西はグリーンランドから東は黒海沿岸のベレザーニ島まで、膨大な数のルーン文字が書かれた多様な支持体が発見されています。

図版8 ベレザーニ島で発見されたルーン石碑

それらはいずれも、新フサルクで刻まれているため、北大西洋からユーラシア西部に広がった「ヴァイキング世界」において、どこでもコミュニケーションが可能であったことが推測されます。古北欧語とルーン文字は、スカンディナヴィアの文化を共有する者にとって、現在の英語や中国語に対応する一種のリンガフランカであったともいえそうです。そうしたリンガフランカとしての言語と文字があればこそ、「ヴァイキング世界」の一体性は一層高まったともいえます。

 もっとも、「ヴァイキング世界」は広大であるがゆえに、新フサルクがリンガフランカとして拡大するプロセスと並行して、北欧内でも言語と文字の分化が進んでいました。ヴァイキングが勢力を拡大した各地で古北欧語は現地語と接触しながら少しずつ変化していったように、文字もまた地域特有のくせを見せるようにもなりました。例えば、デンマークを中心に見られる「長枝ルーン」(long-branch runes)、スウェーデンなどで見られる横線の長さを短縮した「短枝ルーン」(short-twig runes)、さらに省略の進んだ「幹なしルーン」(staveless runes)は、地域的偏差の良い事例といえます。

図版9 長枝ルーン、短枝ルーン、幹なしルーン

https://en.wikipedia.org/wiki/Younger_Futhark より引用。「幹なしルーン」の上下の補助線は省いた。)

ルーン文字を刻むことができたルーン彫師(rune carvers)は、「ヴァイキング世界」を遍歴し、出身工房の特徴を反映したルーン文字を、あちこちで刻むことになります。

 8世紀半ばから11世紀半ばの300年はヴァイキングの活動期であるとともに、ルーン文字の最盛期でもありました。連載第3回で確認したように、古フサルクの利用範囲は必ずしも社会的に広範囲に渡っていたとはいえませんし文字が刻まれる対象も限られていましたが、ヴァイキングによる新フサルクは生活のさまざまな場面で利用されました。アクセサリー、日用雑貨、武器、呪術品、建築物、そして石碑・・・。東ローマ帝国の首都であったコンスタンティノープルのハギア・ソフィア聖堂(現在のイスタンブルのアヤソフィアモスク)にルーン文字で落書きをするヴァイキングすらいました。

図版10 イスタンブルのアヤソフィアモスクのルーンによる落書き

ヴァイキングにとってのルーン文字は、すでに呪術的意味を込められた特別な用途のための文字ではなく、日常のコミュニケーション道具として機能しつつあった、ということができるかもしれません。ヴァイキングのだれもが、「ヴァイキング世界」を訪れるだれもが、ルーン文字に接触するようになったのです。

3ルーン石碑

 ここではヴァイキングによるルーン文字利用の顕著な事例として、ルーン石碑に注目してみましょう。

 ルーン石碑とは、一般的にはルーン文字の刻まれた石碑を指します。連載第3回で確認したように、そのような石碑は確かに古フサルクの時代から確認することができます。しかし、歴史学においてルーン石碑という場合、もう少し限定的な意味を帯びて用いることが普通です。つまりただルーン文字が刻まれている石碑というだけではなく、「XがYを記念してこの石碑を建てた」という特定の形式をもった銘文が刻まれた死者記念碑をルーン石碑(rune stones)と呼び習わしています。

 このようなルーン石碑は、ヴァイキング時代の始まりとともにスカンディナヴィアで建立され始め、その後、スカンディナヴィア人の活動範囲の拡大に伴って、「ヴァイキング世界」の各地へ広がりました。とりわけ紀元1000年を境として、石碑の数は鰻登りとなりました。現在伝来している現物はおよそ3000基あり、そのうちの大部分はスウェーデン中部のウップランド地方に残っています。

図版11 スカンディナヴィア南部におけるルーン石碑の分布図
(出典:Sawyer (2000), p. 12)

デンマークは、バルト海上にあるボーンホルム島のものも含めれば約200基が、ノルウェーは50基ほどが伝来しています。1000年前から同じ場所に立っているものもありますし、移動させられたものもあります。教会の資材に転用されたものもあれば、打ち捨てられて埋もれてしまったものもあります。断片のみ残っているものもありますし、17世紀の段階では確認されて記録されたものの、現在はどこにいったかわからないものもあります(しかし時々、区画整理や道路工事で再発見されて、大きなニュースになることもあります)。いずれにせよ、本来建立された石碑は、少なく見積もっても、現在伝わっている情報の数倍から10倍程度はあったのではないでしょうか。私たちは、ルーン石碑を建立することが社会的に要請される碑文慣習に従って、石碑が林立する景観こそがヴァイキング時代のスカンディナヴィアであると思い浮かべる必要があります。

 このようにヴァイキング世界の景観を決定するルーン石碑は、碑文内容だけではなく、背景に刻まれた装飾や支持素材である石の外形等によって、多種多様でした。極端な言い方をしますと、全く同じ石碑は基本的に存在しません。同じ形式の石碑のコピーや場合によっては大量生産の可能性は指摘できますが、ほとんどの石碑は、オーダーメードの一点ものです。さらに、のちの回で紹介するユトランド半島中部のイェリング・モニュメントやスウェーデン南部のフンネスタッド・モニュメントがそうであるように、いくつかのルーン石碑やその他の巨大な記念物と組み合わせることによって、そこを訪れるものを驚嘆させる威容を誇るモニュメントとされることもしばしばありました。

図版12 イェリング・モニュメント

図版13 オラウス・ウォルミウス『デンマークのモニュメント』(1643)に記録されたフンネスタッド・モニュメント

 ルーン石碑は、ヴァイキングであればだれもが建立できたわけではありません。モニュメントはいうまでもなく、周囲の風景から際立つ石碑を建立するためには、素材である石とさまざまな職人の力が必要となります。そのような行為を可能とするためには、ある程度の政治的経済的リソースをもっていることが前提となります。つまり、ルーン石碑を建立することができるのは、主として、国王や在地有力者といった力のある人物であったと推測されます。ヴァイキングの多くはもともと独自の農場を経営する自由農民でしたが、時代が進むにつれ、富の分配に基づく階層分化とそれに伴う地域内での階層統合が進んでいたことも思い起こさねばなりません。

 それでは、ルーン石碑はなんのために建てられたのでしょうか。

 第一に、死者を記憶するための死者記念碑として、です。石碑に刻まれる文言からも明らかですが、家族、親族、旅の同行者などが、自分との関係において死者を記念するという機能が石碑にはあります。そのため、それは路傍、四辻、集会地といった、共同体内外の人々の目に容易に触れる空間に設置されました。つまりルーン石碑とは他者に見られることを前提とした記念碑でした。共同体のなかで、永続的な素材である石に死者の記憶を刻み込み、折に触れて想起されることを期待していたのです。

 第二に、このような記憶と想起という石碑の機能を考慮したビルギット・ソーヤーは、ルーン石碑を、ただの死者記念碑ではなく、土地財産継承の目印である可能性を指摘しました。ヴァイキング活動の結果、海外で命を落とす土地持ちらが激増した結果、故郷スカンディナヴィアで、土地財産の継承をめぐる争いが頻発したであろうことを考慮した結果の見解です。直接証言はありませんので議論のあるところですが、変動する社会状況と石碑建立の増加を合わせて説明する創見でしょう。

 しかしそれだけではありません。これは私の考えですが、第三の機能として、建立者の社会的地位と権威を誇示する政治的表徴を指摘しても良いと思います。すでに確認しましたように、ヴァイキング時代は、海外進出の時代であるとともに、スカンディナヴィア内で権力闘争とその結果としての統合が繰り返された緊張感のある時代でもありました。そのような競合的な環境下では、自らの地位を誇示し、共同体内や周囲に対して常にアピールする必要がありました。国王の宮廷には、海外君主からの使節すらやってくるのです。そのような相手に対して、自身の持ちうるリソースをダイレクトに投資することのできるルーン石碑は、うってつけのメディアでもありました。林立するルーン石碑やモニュメントは、そうしたヴァイキングたちの自意識のヴィジュアルな表れでもあった、と考えても良いかもしれません。

 このように、複合的な機能をもつルーン石碑には、ヴァイキング時代を知るさまざまな要素が詰め込まれています。次回以降、9世紀のレク石碑、10世紀のイェリング石碑、11世紀のイングヴァール石碑群を検討することで、ヴァイキング時代におけるルーン石碑がどのような役割を果たしていたのかを、より具体的に考察してみましょう。

 

〈参照文献〉

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マレク・ヤンコヴィアク(小澤実訳)「奴隷のためのディルハム九・一〇世紀のイスラーム世界と北ヨーロッパ間の奴隷交易」『史苑』80-1(2020)、36-65頁。
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小澤 実(おざわ みのる)

 1973年愛媛県生まれ。立教大学文学部史学科世界史学専修教授。専門は西洋中世史。著書に、『辺境のダイナミズム』(共著、岩波書店)、『知のミクロコスモス――中世・ルネサンスのインテレクチュアル・ヒストリー』(共編著、中央公論新社)、『北西ユーラシアの歴史空間』(共編著、北海道大学出版会)、『近代日本の偽史言説――歴史語りのインテレクチュアル・ヒストリー』(編著、勉誠出版)、『歴史学者と読む高校世界史――教科書記述の舞台裏』(共編著、勁草書房)などがある。NHK TV アニメ『ヴィンランド・サガ』の時代考証を担当している。

 

 


 

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