石橋博士: 前回の続きで、『もののけ姫』から「もののけ」たちのことばについて、金水教授に話してもらう。 ワリ子: お願いしまーす! 金水教授: では始めます。今回は、「もののけ」たちの物語における位置づけと、そのことばの分析です。
このアニメで、「もののけ」とは森の動物が年月を経て巨大化し、ことばを話すようになった存在を指す。ただしそのことばはもののけ同士、あるいはもののけとサン、アシタカとの間のコミュニケーションに用いられるが、人と話し合うことはない。つまりサンとアシタカは人でありながら、もののけともコミュニケーションがとれる存在であるということになる。 もののけは、「山犬のモロの君とその息子たち」「乙事主とその配下の猪たち」「猩々(しょうじょう)たち」の3つのグループに分けられる。サンは、モロの君に育てられた人の子で、モロの君のグループに属する。森の生命を司るシシ神さまは、もののけたちが崇める文字通り「神」であり、別格の存在である。またコダマたちは、ことばを話さないが、シシ神が支配する領域で生きながらえることができる、森の精のような存在である。物語における、もののけたちの象徴的な意味については後ほど考える。 さて、もののけたちは、森を切り開いて侵入する人間に対して敵対する存在であり、特にエボシ御前のタタラ場の開発には敵意を燃やしているという点で共通しているが、そのスタンスには微妙な違いがある。
声優は美輪明宏。森のリーダー的な存在である。エボシの君を憎んで攻撃を繰り返しているが、乙事主らの無謀な総攻撃論には批判的で、一定の距離を置いて無茶を諫めようとしている。 一人称「わたし」、二人称「おまえ」(アシタカなどに)。三人称に「きゃつ」。時代劇風の男性的なことばづかいで、品も格も大変高い印象を与える。ただし「〜 のさ」という文末や「お行き」という命令表現に、母親らしさが窺える。(以下、DVD『もののけ姫』[宮崎駿監督、ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社、1997年]より引用。台詞に付されたチャプター番号は DVD による。)
声優は森繁久彌。同族のナゴの守が、エボシ御前の銃弾を受けてもがき苦しみ、タタリ神となったことを恥じ、エボシ御前に激しい敵意を燃やす。攻撃性が高いが思慮深いとは言えず、いわゆる “猪突猛進” 型の司令官である。 一人称「わし(ら)」。「わが一族」という言い方もする。アシタカに、二人称「おまえ」「お若いの」と呼びかける。優しく穏やかな話し方もするが、戦闘に当たっては威厳のある格の高い時代劇的な口調で話す。
猿の化身とみられ、手を自由に使うことができる。エボシ御前たちが森を切り開いたあとに忍び込んでは木を植えて、森を蘇らせようとしている。人を食べて人の知能を得たいと願っており、サンやアシタカを手元に置くモロの君のやり方に不満を持っている。 一人称「わしら」「われら」。二人称「おまえたち」(山犬・サンに)。サンをして「森の賢者とたたえられる」と言わしめる、知能の高い存在であるはずなのに、その話し方は格助詞「が」「を」や主題助詞「は」がほとんど抜け落ちるという片言的な話し方になっている点が興味深い。人と動物の間に立つ周縁的な存在であるということを、片言というスティグマ的な表象で提示されていると見られる。
声優は石田ゆり子。人が山犬に、生け贄として投げてよこした赤ん坊であり、自らを山犬の子と任じている。繰り返しタタラ場を襲い、エボシの君を殺そうと試みてきた。 一人称「わたし」。二人称「おまえ」(アシタカ、ヤックルなどに)、「あなたたち」(猩々に)。命令形(「だまれ」等)、断定の助動詞「〜 だ」、疑問文「〜 か」など、男性的であり、終助詞「よ」は少なく、「ね」は皆無、また一カ所に「ぞ」があり、全体として男性的でぶっきらぼうで、子供っぽさも感じさせる。「〜 ちゃう」「〜 ちまえ」のような俗語表現も混じる一方で、「〜 の」や「〜 て」(命令表現)のような女性的な表現も見られる。曖昧で、どっちつかずの存在であることが、ことばづかいの上からも見て取れる。
この物語でもっともわかりにくいのがサンとアシタカの立ち位置である。大きくは、人と森、すなわち文明と自然の抗争の物語と捉えられるが、アシタカはタタラ場ともののけの間に割って入り、エボシ御前らのシシ神殺しを思いとどまらせようとするなど、双方を融和させようと奔走する。しかしシシ神が死んでしまった後は特に悔いることもなく、サンに新しい森で生きよと告げる。サンは、モロの君に育てられ、自らを山犬と位置づけて人との抗争に命を燃やすが、一方で人であるアシタカの出現に心を惑わせる様子も見せる。 ここで参考になるのが、新城カズマ(2009)『物語工学論』で述べられているキャラクター理論である。新城(2009)では、物語の類型とそれを支える主要キャラクターを「さまよえる跛行者」「塔の中の姫君」「二つの顔を持つ男」「武装戦闘美女」「時空を超える恋人たち」「あぶない賢者」「造物主を滅ぼすもの」というパターンに分け、これらの類型から発想を広げて物語(ライトノベルやゲームなど)を作り出す技術について論じている。このキャラクター分析は、神話的構造を下敷きにしているので、クリストファー・ボグラーの「ヒーローズ・ジャーニー」モデル(「〈役割語〉トークライブ! 第10回」参照)との親和性も高い。ここで主張したいのは、アシタカは「さまよえる跛行者」であり、サンは(「武装戦闘美女」であるとともに)「塔の中の姫君」である、ということである。以下に、その要点を述べていく。
新城(2009)から、「さまよえる跛行者」についての説明を引用しておく。
そのようなヒーローの例として、「ロムルスとレムス兄弟の神話」「ウルクの王・ギルガメシュ」「オイディプス王」「オデュッセウス」「ヘラクレス」「アーサー王と円卓の騎士たち」「ジークフリート」「ラーマーヤナのラーマ王子」「孫悟空」「ヤマトタケル」「ドン=キホーテ」「シェーン」等を挙げています。さらに、彼らに共通するのは「何かが欠如している」あるいは「何かが偏っている」という特徴であり、それは文化人類学者レヴィ=ストロースの言う「非対称性」に当たると指摘している(p. 13)。 また、「非対称性」を持つことと「さまよう」ことの関係について(つまり動機付けについて)次のように書いている。
このように見てくると、アシタカは典型的な「さまよえる跛行者」であると言えるであろう。すなわち、タタリ神の呪いを受けて右腕に痣を負い、やがてその痣が骨にまで食い込んで死に至るという予言を受ける。アシタカが里を捨てて放浪の旅に出るのは、その痣を消し去る術を見いだすことではあるが、むしろ「なぜナゴの守はタタリ神となったか」「タタリ神の体から出た鉄の塊は何を意味するのか」「なぜエミシは滅び行く運命なのか」といった、より大きな謎を「曇りない眼で物事を見定める」(ヒイ様)ことがミッションとなっている。つまり、自らの死に至る運命のみならず、民族や文明の命運というより大きな非対称性の行く末を見定めることがアシタカの放浪の目的なのだ。だからこそ、もののけにもタタラ場にも一方的に与することなく、それらの調和の道を最後まで探ることになる。しかし一旦シシ神が死んでしまった後は、そのことに拘泥するより、神亡き後の新しい世界で生きることを選択することに躊躇はない。
サンが「武装戦闘美女」であることは一目瞭然であり、このキャラクターの系列は宮崎駿の作品では、『風の谷のナウシカ』のナウシカとクシャナ、(美女かどうかはともかく)『天空の城ラピュタ』のドーラからこのアニメのサン、「武装戦闘」とは言えないが、職業婦人としての『魔女の宅急便』のキキ、そしてエボシ御前へと受けつがれていることは明らかである。この系譜について分析することは今は措いて、サンが実は「塔の中の姫君」であることについて論じたい。新城(2009)から引用する。
「さまよえる跛行者」との組み合わせとして、新城(2009)は、『ルパン三世 カリオストロの城』(モンキー・パンチ原作、宮崎駿監督、東映、1979年)のルパン三世とクラリス・ド・カリオストロの例を「典型的」として挙げている。これに比べて、アシタカとサンの関係はもっと隠微であり、それであるがゆえに一層現代的であるとも言える。新城(2009)では、「塔」とは象徴的な表現であり、それは「内面・心理」「肉体」「物理的制約」「社会環境」「自然環境」など多彩な様相を持ち得て、そこからの解放が物語を動かすのだとしている。ではサンはどのような「塔」に閉じ込められているのか。サンは一見、物理的な構造物に幽閉されているわけではなく、自由意志でどこにでも移動できるし、すべて自由な意思において行動しているように見える。サンにとっての「塔」とは、自分が人であるにもかかわらず、シシ神を頂点とする森の一員であり、もののけに属する存在であると自認するその認識に他ならない。ことばを替えれば、サンは「シシ神」を中心とする “宗教” に “洗脳” されている。だからアシタカは、モロの君に向かって「あの子を解きはなて!! あの子は人間だぞ!!」(チャプター 17)と訴える。最後のシーン(チャプター 27)でアシタカはサンに「シシ神さまは死にはしないよ。生命そのものだから(中略)サンは森で、わたしはタタラ場でくらそう。共に生きよう」と語りかける。これが、サンの洗脳を解くマジック・ワードなのだ。
このようにして見てくると、『もののけ姫』は単に文明対自然というようなわかりやすい対立構造というよりは、古い宗教が新しい思想(宗教)によって駆逐される “宗教戦争” を描いていると理解することができる。シシ神とは、森の中における生命の循環そのものが神格化された存在であり、その神を崇める山犬、猪、猩々たち、もののけは同一の宗教によってゆるやかに結び付けられたコミュニティを象徴している。エミシの民は、人でありながら、むしろこの古い宗教に属する古代人であり、だからこそアシタカはもののけたちともことばを交わすことができる。しかしこのコミュニティは、火と鉄で武装した新しい思想(宗教)に追い詰められていた。シシ神殺しとはまさしく、火と鉄によって古い神であるシシ神が文字通り殺されるのである。 そう考えると、実はタタラ場もある種宗教的な色合いの濃い空間である。歴史的に “アジール” とは多くの場合、宗教によって保護された空間であった。タタラ場は祭司としてのエボシ御前の強力なカリスマのもとで統制されていた。若い男女が多数いるにもかかわらず、そこに家庭はなく、子供もいない。奇妙な緊張感に満たされた空間ではなかったか。このような意味でエボシ御前もまた自己洗脳によって捕らわれた姫君であったかもしれない。それ故に、アシタカは、エボシ御前に「そなたの中には夜叉がいる。この娘の中にもだ」(チャプター 11)と告げるのだ。
金水教授: 講義終了です! 石橋: うむ。ごくろうじゃった。 ワリ子: ありがとうございました! 石橋: 次回は、村上春樹の小説について論じていくぞ。 ワリ子: わ〜! 楽しみです♪
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〈参考文献〉
新城カズマ(2009)
『物語工学論――入門篇 キャラクターをつくる』角川学芸出版.
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