民の声は神の声である
「民の声は神の声」という言葉を聞いたことがありますか? こちらの格言は、英語圏でもラテン語 Vox populi, vox Dei. で知られています。最近でも、X(旧 Twitter)にてイーロン・マスク氏がこのフレーズをラテン語でポストしていました。また、朝日新聞のコラム「天声人語」の英語版タイトルにも、〈Vox Populi, Vox Dei〉とラテン語が使われています。こちらのフレーズの個々の単語を解析すると、以下のようになります。
これだと、Vox populi, vox Dei. はただ名詞を並べただけではないかと思われるかもしれませんが、ラテン語などでは名詞を「A B」のように2つ並べたら「A は B である」という意味になります。このタイプの文は、「名詞文」と呼ばれます。つまり、Vox populi, vox Dei. は「民の声は神の声である」という意味です。ちなみに、名詞文は英語の be 動詞にあたる単語(コピュラと呼ばれる)が省略されたものとよく言われますが、名詞文はコピュラが省略されたものではないと考えられています。 vox は、英語の voice「声」の語源です。ラテン語の vocalis「声の」は英語の vocal「声の」という形容詞の語源になっています。ちなみに vocal は「うるさく求めたがる」という意味もあります。populus は、英語の people「人民」の語源です。people の形容詞が popular「人気のある」で、pop music「ポップミュージック」の pop も popular が短縮されたものです。Deus については、例えば「デウス・エクス・マキナ(deus ex machina)」というフレーズを聞いたことはないでしょうか? これは機械仕掛けの舞台装置で登場して、紛糾した事態を円満に収拾・解決する神を指します。転じて、不自然にうまくいく結末のこともデウス・エクス・マキナと呼ばれます。
最古の引用例
さて、Vox populi, vox Dei. というフレーズの出典は何でしょうか? 実ははっきり分かっていません。こちらのフレーズが書かれた一番古い資料は、アルクインがフランク王国の国王カールに宛てた手紙です。カールが皇帝として戴冠されるのは、この手紙が書かれた(798年頃と推定されている)後のことです。アルクインは元々ヨークの大聖堂付属学校の校長でしたが、カールに呼ばれて宮廷に仕えることになりました。カールは古代の文化の復興にも力を入れ、この文化興隆の動きはカロリング・ルネサンスと呼ばれます。 その手紙の中の、このフレーズがある箇所はこのようになっています。 Nec audiendi qui solent dicere: Vox populi, vox Dei, cum tumultuositas vulgi semper insaniae proxima sit. そして、「民の声は神の声」とよく言っている人たちは耳を傾けられるべきではありません。というのも、民の喧噪は常に狂気に近いものであるからです。 つまり、このフレーズを伝える一番古い資料はこの内容を否定するものなのです。この手紙から、この時代にすでに「民の声は神の声」は有名なフレーズとして、人々の間である程度定着していることがうかがえます(あるいはアルクインと対立するグループが言っていた)。つまり、「民の声は神の声」というフレーズは、アルクインがこの手紙を書いたより前の時期に生まれたと考えられます。 引用したラテン語についてですが、「~する人たちは耳を傾けられるべきではない」というのは、日本語としてより自然に訳すなら「~する人たちに耳を傾けるべきでない」ということです。アルクインにとっては、民衆の声というのは喧噪としか見なされていなかったようです。 先に引用した文が nec「そして~でない」という単語で始まっているのは、その前にある文に連なる形で書かれたからです。参考までに、前にある文は以下の内容です。 Populus juxta sanctiones divinas ducendus est, non sequendus; et ad testimonium personae magis eliguntur honestae. 民は、神定法にしたがって導かれるべきであり、民に従うべきではありません。そして証言が求められるときは身分の高い人が好んで選ばれます。 この Vox populi, vox Dei. について、アルクインの手紙においては当時の社会で広く言われていたとははっきり書かれていませんが、12世紀に活躍した歴史家の William of Malmesbury が書いた De Gestis Pontificum Anglorum「イングランドの司教たちの事績について」の第1巻では、Vox populi, vox Dei. というフレーズを「ことわざ(proverbium)」として紹介しています。つまり、アルクインの時代にはこの言葉が社会で広く知られていたかどうか不明でも、12世紀の時点では多くの人に知られていたと推測することができます。「民の声は神の声」という言葉を耳にしたり目にしたりした際は、ここで書いた歴史も思い出していただければ嬉しいです。
〈参照文献〉
Boas, George. (2020). Vox Populi: Essays in the History of an Idea. Johns Hopkins University Press.
Dümmler, Ernst. (1895). Epistolae Karolini aevi, tomus II. Weidmann.
Nelson, J., & D. Kempf. (2015). Reading the Bible in the Middle Ages. Bloomsbury Academic.
Rule, Martin. (1883). The Life and Times of St. Anselm: Archbishop of Canterbury and Primate of the Britains, Volume 2. Kegan Paul, Trench, & Co.
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