西田(以下西): 甲矢さん、今日は早いな。どないしたん。
甲矢舞(以下甲): うーん、やっぱり、元気なだけやったらあかんのかなあ "(-""-)"
西: そんなことないて。人は自分らしゅうしとったらええんや。
甲: そやけど、連れの六甲さん(神戸っ子)も伊丹さん(北摂の伊丹市出身)も、みんな無駄口たたかんし、大人しいし。
西: あの子らと、あんたとはちゃうキャラやろ。気にしゃんとき。
甲: ……。
西: それやったら、やってみよか。無口なキャラ!
甲: そんなん、なれんの? (*'▽')
西: まあ、見てみ。 (^_-)-☆
ふかえりは挨拶を返すでもなく、そのまま天吾の顔を見つめていた。「あなたのこと知っている」、やがてふかえりは小さな声でそう言った。
「僕を知ってる?」と天吾は言った。 「スウガクをおしえている」 天吾は肯いた。「たしかに」 「二カイきいたことがある」 「僕の講義を?」 「そう」 彼女の話し方にはいくつかの特徴があった。修飾をそぎ落としたセンテンス、アクセントの慢性的な不足、限定された(少なくとも限定されているような印象を相手に与える)ボキャブラリー。 (村上春樹『1Q84 BOOK1』新潮社、2009年 p. 84)
西: ほら、無駄なこと言わんと、淡々としゃべってるやろ。
甲: こんな子、ほんま、どこにもおらんで。
西: でも、会話はできてるんや。
「あってもらうひとがいる」とふかえりは言った。
「僕がその人に会う」と天吾が言った。 ふかえりは肯いた。 「どんな人?」と天吾は質問した。 質問は無視された。「そのひととはなしをする」と少女は言った。 「もしそうすることが必要なら、会うのはかまわない」と天吾は言った。 「ニチヨウのあさはあいている」と疑問符のない質問を彼女はした。 「あいている」と天吾は答えた。まるで手旗信号で話をしているみたいだ、と天吾は思った。 (『1Q84 BOOK1』p. 98)
甲: これ無口?! 単なる不思議ちゃんやん。
西: そやけど、意思疎通はできてるし、予定も合わせてるし。
甲: 無理っ! こんなん、センセもよう見つけてくんなあ。
西: 正直言うと、金水先生に教えてもうたんやけどな。 (-_-;)
村上春樹氏は、現代日本を代表する作家ですが、こんなキャラを登場させているんですねえ。しかし、まず、現実世界にはいそうな気がしません。やはり、村上氏の小説世界の中だからこそ、存在しうるキャラクターということでしょうか。 このふかえりの話し方については、「修飾をそぎ落としたセンテンス」「アクセントの慢性的な不足」「限定されたボキャブラリー」(p. 84)と地の文(小説の語りの文)に説明があります。センテンスはあくまでもシンプル、アクセントのないとされる特異な話し方は会話文に漢字を使用しないことで示されます。ボキャブラリーは言うまでもなく必要最低限です。 さらに、会話もかみ合いません。「まるで手旗信号で話をしているみたいだ」(p. 98)と相手の天吾は感じています。まさに、人とではなく機械と情報のやり取りをしているような感じになっています。 甲矢さんも、乗り気じゃないですね。前の「ボクっ子」以上にキャラが異質なので、当然かもしれませんが … 。
甲: センセ、こんなん、話にならんわ。うちは、もっと普通の子がええねん。
西: よし、じゃあ、地元でいこっ!
甲: えっ? どういうこと?
(男子高校生キョンが駅前でクラスメイトの長門有希を見つけて声をかける ―西田注)
「今日でよかったのか?」 うなずく。 「ひょっとして毎日待っていたとか」 うなずく。 「……学校で言えないことでも?」 うなずいて、長門は俺の前に立った。 「こっち」 歩き出す。足音のしない、まるで忍者みたいな歩き方である。(中略) 俺たちは駅からほど近い分譲マンションへたどり付いた。 「ここ」 (谷川流 著/いとうのいぢ イラスト『涼宮ハルヒの憂鬱』角川書店、2003年 p.112)
「雪、無音、窓辺にて。長門有希(茅原実里)」
(AnimeSongCH より)
甲: こんども、全然、普通ちゃうやん!
西: この『涼宮ハルヒの憂鬱』(ライトノベル「涼宮ハルヒシリーズ」中の1冊)は、甲矢さんの名前のもとになってる、西宮市の甲山周辺が舞台になってるんや。この待ち合わせの駅は甲山のふもとの阪急電鉄甲陽線の甲陽園駅がモデルなんやで。
甲: そういう問題ちゃう! (~_~;)
(長門有希のマンションでの、長門とキョンの会話 ―西田注)
「学校でできないような話ってなんだ?」 水を向ける。ようやく長門は薄い唇を開いた。 「涼宮ハルヒのこと」 背筋を伸ばした綺麗な正座で、 「それと、わたしのこと」 口をつぐんで一拍置き、 「あなたに教えておく」 と言ってまた黙った。 どうにかならないのか、この話し方。 (『涼宮ハルヒの憂鬱』pp. 116-118 ―西田注)
甲: ますます、わけわからんわ。
西: な、無口なキャラって、結構いてるんや。
甲: こんなん、紹介されてもしゃーないわ。うちの探してるのは、もっと普通の子や。
この長門有希は、基本的にしゃべらないキャラクターです。相手への返事も、うなずいたりすることで示し、「うん」「はい」とは言いません(p. 112)。さらに、長門有希の住むマンションに着いて、話の本題に入っても、修飾語句のないぶつ切りのセンテンスで話をするので(p. 116-118)、最後には、聞いているキョンが「どうにかならないのか、この話し方」(p. 118)とあきれてしまいます。
西: そや、この2人見て、どう思う? 似てると思わん?
甲: えっ? まあ2人とも不思議ちゃんみたいな、しゃべらん子やなあ。そやけど似てるとか、そんなん考えもせんわ。なんで、そんなこと聞くん?
西: そんなふうに感じる人がいるんや。
それで、この天吾パートに「ふかえり」と称する女子高生が登場するんだが、驚いた、まんま「涼宮ハルヒ」の長門有希なのだった。謎めいた言葉を断片的にポツポツと語る美少女、ってヤツ。
『空気さなぎ』という小説で新人賞を取りデビューする17歳の少女(ふかえりのこと ―西田注)はどう見ても長門有希だし、(以下略)
甲: この人ら、長門有希が好きなだけちゃうん。 (+_+)
西: それもあるかもしれんけど、こういうキャラがマンガやアニメの世界に特定のタイプとして存在しているからなんや。前回の「ボクっ子」もこれと同じやで。ファンの人らは、「無口系キター!!」とか言いますなあ。
甲: めんどくさい人らやなあ。 "(-""-)" うち、もう、よー相手せんわ。(と帰っていく)
さすがに、もう甲矢さんも相手してくれませんね。でも、彼女が消えてからが説明タイムです。よろしくお付き合いください。(キリッ) さて、ふかえりも長門有希も、ともに女子高校生という設定です。でも、とてもじゃないですが、普通の高校生ではありませんね。二人の会話文がなんとなく似ていることはわかるのですが、それだけではありません。外見も非常によく似ているのです。 ふかえりは「小柄で全体的に造りが小さく」(『1Q84 BOOK1』p. 83)、「何を考えているのか、測り知れないところがある」(同 p. 83)とされます。一方、長門有希は、「白い肌に感情の欠落した顔」(『涼宮ハルヒの憂鬱』p. 53)で、「細っこいシルエット」(同 p. 112)の「どうにも存在感の希薄な」(同 p. 112)キャラです。二人とも小さくてはかなげな感じの存在なのです。
そして、ふかえりのようなキャラを目にすると、オタク系の世界に通じている人は、すぐに一つの類型だなと思い至ります。特に、『涼宮ハルヒの憂鬱』を読んだ者には、自然と長門有希が想起されるようです。また、SF 翻訳や文芸評論をされている大森望氏は、長門有希とともに、庵野秀明監督のアニメ作品『新世紀エヴァンゲリオン』(1995年〜1996年テレビ放映)に登場する綾波レイとふかえりとの類似も指摘しています(『村上春樹「1Q84」をどう読むか』p. 132)。
「新世紀エヴァンゲリオン」第14巻【プレミアム限定版】告知 CM
(綾波レイは 0分07秒あたりに登場)
さらに、もう一つ注目すべき点があります。それは、この綾波レイも含めた3人が、いずれも相手の男性に対して好意と信頼感を強く抱いていることです。そして、これは直接的には作品内で語られることはありませんが、彼女たちの行動から読者や視聴者にははっきりと伝わってくるのです。「ツン」を示しての「デレ」である「ツンデレ」に対して、「秘めたデレ」とでもいえるでしょうか。こういうのもオタク系の皆さんには、非常に魅力的に映るようです。
ただし、ここで問題となるのは、ライトノベルやマンガやアニメに代表されるオタク系の趣味の世界に興味のない、一般的な日本語話者の皆さんがふかえりと長門有希を見比べて同じ類型のキャラと見てくれるかどうか、という点です。単に、会話のパターンが似てる、と感じる以上のものがあるということです。しかし、これはまず無理だろうと私は考えています。 たとえば、先の大森氏の意見の掲載されている『村上春樹『1Q84』をどう読むか』では、比較文学や映画の研究者である四方田犬彦氏もふかえりの独特の存在感に注目して、「不愛想でその実、内側に聡明さを隠しているタイプ」(p. 27)と分析します。また、『村上春樹の「1Q84」を読み解く』でも「視点28 ふかえりという名の不思議ちゃん」(pp. 70-71)、「◆ふかえりは神降ろしの巫女……!?」(pp. 100-106)等で、主要なテーマとして取り上げられています。しかし、それらはいずれも普通とは違った不思議な存在感、神のことばを人に伝える巫女にも通じるような存在といった、ふかえり自身の個性として説明され、一種の類型的なキャラの一人といったような発想にはなりません。
ライトノベルという作品群は、若者を中心としたオタク系ともされる人々が主な読者層です。先の村上春樹氏の作品のように、一般の日本語話者がほぼ知っているようなジャンルの作品ではありません。だから、「そんなふうに見えないのも当然だろう」と多くの人は感じるでしょう。しかし、問題はこれだけではありません。「無口」で「存在感の薄い」、そのような「属性」を持ったキャラとして把握する、このようなキャラの持つ「属性」でキャラを類型化して把握するという発想自体が、一般の日本語話者には希薄なのではないかとも考えられるのです。
私は、このような人物の性格的特徴に通じる「属性」を示す言語表現を、(西田 2010)で「属性表現」と名づけました。たとえば、連載第6回のツンデレ表現がその代表的なもので、こういう話し方をするキャラならツンデレキャラだというような、「属性」ごとにそれに即したことばづかいがあるとするのです。そして、この「属性表現」については、西田(2018b)で、さらに、その特徴を再検討しています。 そこでは、「属性表現」には、キャラがいくつもの「属性」を持つ可能性が高いという「複合性」、そして現実世界にはそういう「属性」を持ったキャラクターが存在しにくいという「非現実性」、さらには該当する「属性」についての「知識の共有」が日本語話者の一部においてのみ存在していることを指摘しました。 また、西田(2018a)では、役割語と「属性表現」との相違点についても改めて検討しました。そして、役割語が日本語話者のほぼ全てに知識が共有されているのに対して、「属性表現」はその「属性」が理解される分野に詳しい一部の日本語話者だけに知識が共有されていることを確認しました。つまり、知識の共有の範囲という点で役割語と「属性表現」は、大きく異なっているのです。
役割語については、ほぼ全ての日本語話者の間で、キャラとことばづかいの関係づけについての知識が共有されています。しかし、ここまでの連載3回で取り上げた、ツンデレキャラ、ボクッ子キャラ、無口系キャラは、それぞれ、特定のファン層以外には、その存在が意識されることのないキャラです。当然のことながら、そのことばづかいがどのようなものであるかは、一般的な日本語話者には知られてはいません。だから、オタクの連中は … と揶揄されるのも仕方ないのですが。
しかし、オタクと称される人たちだけがあれこれ言われるのは、いかがなものでしょうか。私たちは、ほとんどの人が、自分たちの所属する集団内でのみ通じる表現を無意識に使用しています。会社に勤める皆さんですと、それぞれの業界にのみ通じる用語があるはずです。 これについては、糸井重里氏の『オトナ語の謎。』という興味深い著作があります。社会人の皆さんは、新しい仕事の企画等を、「テーブルに乗せる」(p. 42)、「すりあわせる」(p. 37)、「落とし込む」(p. 32)ようなことを毎日されているのではないでしょうか。けれども、よく考えるとこんなことばを日常会話で使うことはまずありません。あくまでも会社や役所等の中での仕事用のことばのはずです。しかし、あまりにも慣れすぎると、自分たちが仕事で「特殊な」ことばを使っている自覚もなくなっていきますが。
大切なのは、そういう表現を使用していることに対して、意識的になることです。そうすることで、日本語の言語としてのあり方を見直すことが可能となり、ひいては、一人一人の日本語話者の言語表現能力が向上することにもつながると、私は考えています!!
甲: なに、センセ、演説ぶってんの。うちのおらんとこで、かっこつけんときや!
西: いやいや、これも仕事やさかい。 (^^♪
甲: まあ、ともかく、読んでくれはる皆さんに楽しんでもらえるのが一番や。3回もお付き合いしてもうて、ほんま、おおきに!
西: なに、勝手にしめとんねん。
西&甲: それでは、皆さま、さよおーなーらー♪
ご感想、ご質問等ありましたらぜひ nihongo@kenkyusha.co.jp までお寄せください!
〈参考文献〉
糸井重里(監修)(2003)
『オトナ語の謎。』東京糸井重里事務所 ほぼ日刊イトイ新聞
大森望・豊崎由美(2009)
「対談『1Q84』メッタ斬り!」河出書房新社編集部編『村上春樹『1Q84』をどう読むか』河出書房新社
村上春樹研究会(編著)(2009)
『村上春樹の「1Q84」を読み解く』データ・ハウス
西田隆政(2010)
「「属性表現」をめぐって―ツンデレ表現と役割語との相違点を中心に―」『甲南女子大学研究紀要 文学・文化編』46 甲南女子大学
西田隆政(2018a)
「役割語の周縁の言語表現を考える―「人物像の表現」と「広義の役割語」と「属性表現」―」岡ア友子・衣畑智秀・藤本真理子・森勇太編『バリエーションの中の日本語史』くろしお出版
西田隆政(2018b)
「「属性表現」再考―「複合性」「非現実性」「知識の共有」から考える―」定延利之編『「キャラ」概念の広がりと深まりに向けて』三省堂
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