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第15回 村上春樹作品と翻訳 〜『海辺のカフカ』(2)

 

 

 『海辺のカフカ』の構造(2)偶数章 

 

村上春樹(2002)『海辺のカフカ 下』(新潮社)

 

石橋博士: では、偶数章に移ろう。こちらの方は、全体として『オズの魔法使い』のような、ファンタジックな雰囲気が漂っている。猫と人が会話をしたり、ジョニー・ウォーカーやカーネル・サンダーズを名乗る、意表をつくキャラクターが現れるのもそうだが、ナカタさんという不思議な老人が中心人物となっていて、彼の言動が読む人を和ませるということもあるじゃろう。

ワリ子: ナカタさん、なんかかわいいですよね。私もファンです。

石橋博士: まずは前回の奇数章(「〈役割語〉トークライブ! 第14回」)と同様に、各章に分けてストーリーを追っていこう。ここでも、ボグラー氏の「ヒーローズ・ジャーニー」(「〈役割語〉トークライブ! 第10回」参照)の項目を付しておく。

 


第2章アメリカ陸軍情報部の記録による、1944年11月7日に山梨県で起こった「お椀山事件」の記録。国民学校女性教師の岡持節子へのインタビュー。キノコ取りの野外実習で16名の児童を連れてお椀山に入ったところ、児童全員が原因不明の意識不明状態に陥ったことが語られる。(プロローグ)


第4章アメリカ陸軍情報部報告書の続き。中沢医師へのインタビュー。意識を失った子どもたちは一人を除いて回復したが、原因についてはまったく覚えていない。ナカタ(中田)少年のみ意識が戻らず、甲府の大学病院から軍の病院に移されて、この町には帰ってこなかった。(プロローグ)


第6章ナカタ老人と黒い猫のオオツカさんとの会話。ナカタさんはゴマという猫の居場所を探している。ナカタさんは9歳の時に事故に遭い、3週間の間意識を失っていた。意識が戻った時には、父母の顔も字を読むことも算数も自分の名前さえ全部忘れていた。オオツカさんは、ナカタさんの影が薄いことを指摘する。《日常の世界》


第8章アメリカ陸軍情報部報告書の続き。東京帝国大学医学部精神医学教室教授の塚山重則に対するインタビュー。15名の児童の記憶の「欠落」は、集団催眠によるものではないかとの示唆が与えられる。ナカタ少年は「幽体離脱」のような症状であったと証言される。(プロローグ)


第10章ナカタさんは、行方不明の猫のゴマを探している。ナカタさんがカワムラさんと名付けた猫が行方を知っているらしいが、うまく言葉が通じない。ミミという美しいシャム猫が現れて、ナカタさんを助けてくれる。ミミが聞き取ってくれたカワムラさんの証言によれば、「背が高く、奇妙な縦長の帽子をかぶって、革の長靴をはいている」男が出没して猫を捕まえているとのこと。


第12章「お椀山事件」の際の引率者であった岡持節子が、昭和47年10月19日付けで調査にあたった東大教授の塚山重則に対して送った手紙に、事件の真相が記されている。岡持は、野外実習の際に突然始まった生理の処理をしているところを中田(ナカタ)少年に見られて、激しく叩いてしまった。その様子を見たクラスの児童全員が気を失い、目覚めた時にはその事実を忘れていたが、中田少年だけは意識が戻らなかった。また岡持の目から見て、中田少年は成績優秀であったが、家庭環境に問題があり、暴力の影が見えることを書いている。(プロローグ)


第14章ナカタさんは、ゴマの飼い主のコイズミさんに現状を説明する。また、オオカワさんと名付けた猫から、ゴマのことは忘れろと警告される。夕方、巨大な黒い犬が現れ、ナカタさんを「ジョニー・ウォーカー」のもとに連れて行く。ジョニー・ウォーカーはゴマのことを知っており、またナカタさんのような人を探していたと告げる。《冒険への誘い》


第16章ジョニー・ウォーカーは猫を集めて殺し、その魂を集め、それを使ってとくべつな笛を作るのだとナカタさんに教える。これからゴマの首を切るところだが、私を殺してくれたらゴマを帰そうと持ちかける。ジョニー・ウォーカーは、ナカタさんの目の前で次々と猫の腹を割いて心臓を取り出して食べてみせる。ナカタさんは思わずジョニー・ウォーカーの胸にナイフを突き立てて殺し、捕まっていたミミとゴマを連れて脱出する。《冒険への拒絶》


第18章ナカタさんは、気がつくと、草むらに仰向けになって寝ていた。2匹の猫が両脇にいたが、猫の言葉を理解することはできなくなっていた。体には異変がなく、血まみれでもなかった。ミミは自分で家に戻り、ナカタさんはゴマをコイズミさんに届けた。ナカタさんは、交番に出頭して、人を殺したと告げるが、追い返される。去り際に、明日の夕方、イワシやアジが空から降ってくると教える。予言通りに魚が降り、また近所の住宅地で男の刺殺死体が発見された。そのころ、ナカタさんは既に街を出ていた。《第一関門》


第20章ナカタさんは、何人かの人に助けられながら、東名高速道路の富士川サービスエリアまでたどりつく。駐車場の端で、若い男たちが一人のやはり若い男を取り囲んで暴行を加えているのを目撃し、制止しようとしたが聞き入れられない。ナカタさんは自分の体の中で何かが静かにわき上がってくるのが感じられた。その時、空からヒルが多量に降ってきて、暴行をしていた若者たちは退散した。ナカタさんは、神戸まで乗せていってくれるというトラック運転手を見つける。彼は岐阜の山の中で育った、中日ドラゴンズの帽子をかぶった青年だった。《仲間》


第22章トラックの運転手は星野(ホシノさん)と言った。神戸で朝食を摂る。ナカタさんは、星野青年に自分の身の上を語る。ナカタさんは星野青年に、大きな橋を渡りたいと告げる。しかし、彼にはどこに行くか、何をしに行くかもわからない。星野青年は、自分の祖父に似たナカタさんを連れて四国に行くことをきめ、2人でバスに乗る。


第24章徳島市に着き、星野青年の見つけた旅館に2人で泊まり、ナカタさんは直ぐに眠りにつく。星野青年の半生が説明される。農家の5人兄弟の三男坊で、高校時代にすさんだ生活をしたあと、自衛隊を経て長距離トラックの運転手となった。あれていた時期にもじいちゃんだけはやさしくしてくれたが、感謝を表すこともしないまま、自衛隊に入ってしばらくして祖父は癌で亡くなった。ナカタさんは、星野青年に、西に向かうと告げる。星野青年は、とりあえず高松に行こうと提案する。ナカタさんは星野青年の体の不調(腰骨のずれ)を見抜いて治療する。2人は JR で高松市に入る。ナカタさんは、星野青年に、「入り口の石を見つけようと思います」と告げる。


第26章2人は〈入り口の石〉を探し、図書館にも行くが、手がかりが見つからない。ナカタさんが旅館に帰って寝てしまうと、星野青年は夜の街に出る。「カーネル・サンダーズ」が現れて星野青年をホシノちゃんと言って呼び止める。カーネル・サンダーズは星野青年に女を斡旋しようとし、また〈入り口の石〉のことを知っているから教えてやると告げる。《賢者》


第28章カーネル・サンダーズは神社に星野青年を連れて行き、女を呼び出す。2人はラブホテルに入って行為に及び、また彼女が大学で専攻している哲学について語る。ことを終えて神社に戻ると、カーネル・サンダーズは、〈入り口の石〉はこの神社の林の中にあると告げる。


第30章カーネル・サンダーズは自分の正体について語る。林の中の祠に案内し、そこに〈入り口の石〉があると言い、その石を旅館に持って帰れと言う。ナカタさんは翌朝の5時前に目を覚まし、枕元にあるその石を目にする。


第32章ナカタさんは、外にいる猫や石に向かって、「今日は雷さんがやってきます」と言う。また、星野青年に石のことを尋ねられて、「雷さんを待ちましょう」と言う。ナカタさんは、星野青年に、石の蓋が開いて出入りをしたために「自分は空っぽの人間」になり、様々な超能力を持つに至ったが、またジョニー・ウォーカーの侵入も許してしまったという意味のこと言う。ナカタさんは星野青年に石をひっくり返すように頼む。星野青年は、渾身の力を込めて石をひっくり返す。ナカタさんは「入り口が開きました」と告げる。


第34章ナカタさんは疲れたと言って眠る。星野青年は街に出て時間をつぶすなかで、ふと見つけた古風な喫茶店に入り、ベートーヴェンの『大公トリオ』を聴いて内省的な気持ちになる。この曲が気に入って、店主に説明を受ける。旅館ではナカタさんが眠り続けていた。翌晩、星野青年はトリュフォーの映画を見たあと、再び昨夜と同じ喫茶店に行く。ハイドンのチェロ協奏曲を聴き、店主にハイドンについて説明を受ける。


第36章ナカタさんが眠り続けている間に、カーネル・サンダーズから星野青年に電話が掛かってくる。カーネル・サンダーズは、ナカタさんを起こし、直ぐに旅館を出てとあるマンションに行くように告げる。警察が殺人の捜索をしているからである。ナカタさんは、開けた入り口の石をまた閉めなければならないので、今は警察に自首する気持ちはないと言う。マンションに行き、2人は海岸に出る。ナカタさんは、星野青年に車を借りて欲しいと言う。《最も危険な場所への接近》


第38章星野青年は、ナカタさんと移動するために、車を借りる。ナカタさんは石と会話を交わす。2人は市内を車でぐるぐる回る。翌日も同じことをする。2人は甲村記念図書館にたどりつく。


第40章星野青年は、甲村図書館の大島さんとベートーヴェンの人生について語り合う。2時になると、星野青年とナカタさんは館内の見学に参加し、佐伯さんに会う。ナカタさんは、佐伯さんと2人で話をするために佐伯さんの部屋に入る。


第42章ナカタさんと佐伯さんは〈入り口の石〉について話をする。2人は、お互いに、影が半分しかないことを確認する。ナカタさんは、「私たちはそろそろここを去らなくてはなりません」と佐伯さんに告げる。佐伯さんは、自分の人生について書き綴ったファイルをナカタさんに焼いて欲しいとお願いする。2人が出て行ったあと、佐伯さんは心臓発作で死ぬ。


第44章ナカタさんと星野青年は国道沿いの河原で、ファイルを焼く。マンションに帰るとナカタさんは眠りにつき、そのまま死ぬ。


第46章ナカタさんの死体といる星野青年のところに、太った黒猫が現れ、星野青年に話しかける。《賢者》


「カラスと呼ばれる少年」

森を移動中の、ジョニー・ウォーカーとおぼしき男がカラスと呼ばれる少年に、自分の意思について語る。カラスと呼ばれる少年はジョニー・ウォーカーに襲いかかり、舌を引きずり出す。


第48章黒猫は星野青年に語りかける。自分はトロであると名乗る。トロは、星野青年に、「あいつ」が現れたら殺し、そのあと入り口の石を閉じるように告げる。午前3時を過ぎたころ、ナカタさんの口から白いウリのようなものが出てくる。星野青年は入り口の石を閉じ、包丁でそれを分断して殺す。《最大の試練》


 

 奇数章と偶数章の関係 

ワリ子: 偶数章は、それだけで「ヒーローズ・ジャーニー」の構造を持っていると言えるのでしょうか。

石橋博士: うむ、最後に甲村図書館で2つの物語が接触するまで、偶数章はそれだけでかなり独立した物語として読める。ナカタさんは、レヴィ・ストロースの言う「非対称性」(「〈役割語〉トークライブ! 第13回」参照)、すなわち欠陥のかたまりみたいな人物で、ジョニー・ウォーカー=田村浩一を殺してしまうことを契機として冒険の旅に出るという点では、「ヒーローズ・ジャーニー」の構造をなぞっていると言えるじゃろう。

ワリ子: でも老人だし、あまり「成長」という感じではないですね。

石橋博士: そうじゃな。老人であるし、しかもナカタさんは「空っぽ」の人物として造形されているので、本人は旅の目的も行く先も、また自分の能力もわからないまま移動していく。悪も善も、ナカタさんを通って現れるという意味で、通路のような存在じゃ。物語の終盤になって、ナカタさんはようやく「空っぽ」でない自分に戻りたいという希望を述べるが、その希望はかなえられないまま命が尽きてしまうな。

ワリ子: それ、泣かせますよねー。むしろ「成長」という意味では、旅のお供の星野青年に希望が託された形になるのかな。

石橋博士: 星野青年もいろいろ問題のある育ちを経て、ナカタさんとの旅を契機に内省的に自分を見つめ直すことができた。

ワリ子: ベートーヴェンまで好きになっちゃったし。(笑)

石橋博士: やはり、奇数章と偶数章を合わせて『海辺のカフカ』が完成するのであり、偶数章は奇数章を補完する形で成立しているとも言える。カフカ少年とナカタさんは、場所と立場を取り替えて「父殺し」を完遂したわけじゃしな。また佐伯さんはいわば「塔の中の姫君」(「〈役割語〉トークライブ! 第13回」参照)としての性格を持っており、かつての過ちを悔いながら自分の半生をひたすら書き綴るという無為の生活をしていた。ナカタさんは、自分の意思ではないにせよ、佐伯さんに死を与え、ファイルを焼き捨てる約束をすることで、佐伯さんに安息をもたらす役割を果たしておる。

ワリ子: よくわからないけど、むかし、佐伯さんが自分と婚約者の世界を護るために〈入り口の石〉を開けてしまったことですべての物語が始まった、ということになるんですね。

石橋博士: まるで「パンドラの箱」のようにそこから憎悪や暴力の連鎖をもたらす種のようなものが飛び出し、それがジョニー・ウォーカー=田村浩一を産み出し、カフカ少年を深く損なうに至った。また、「空っぽ」のナカタさんを見出して、憎悪と暴力の種を植え付けもした。一方で、世界のほころびを調整する力が、ナカタさんを動かして〈入り口の石〉を再び開けさせ、ジョニー・ウォーカーの舌とおぼしき魔物をおびき寄せ、星野青年に殺させることに成功し、一方でナカタさんと佐伯さんに死をもたらすことで物語の円環を閉じさせた、ということじゃろう。ナカタさん自身、幼少時代に暴力を受けたことをきっかけとしてそして、〈入り口の石〉の蓋が開いて出入りをしたことで様々な超能力を持つ「ナカタさん」になったわけじゃし。

ワリ子: なんでウイスキーの「ジョニー・ウォーカー」やフライド・チキンの「カーネル・サンダーズ」なんでしょうね。

石橋博士: おそらく、「ジョニ黒」と呼ばれるようにジョニー・ウォーカーは「黒」のイメージが強いし、カーネル・サンダーズは全身白ずくめじゃから、黒 vs. 白というコントラストを意識したのじゃろう。そこを敢えて、商業主義的なアイコンにそろえたところは、作者の茶目っ気なのかもしれんが、正直よくわからん。ジョニー・ウォーカーのメーカーにとっても、KFC にとっても、あまり嬉しい使われ方ではないからのう。

ワリ子: じゃあ、この物語の構造と、キャラクターの言葉はどんな関係になってるんですか。

石橋博士: そこが肝心のところじゃ。今回はスペースも尽きたので、ここまでじゃ。

 

(by 石橋博士)


次回、『海辺のカフカ』編
完結じゃ!

 ご感想、ご質問等ありましたらぜひ nihongo@kenkyusha.co.jp までお寄せください!

 

〈参考文献〉

内田 康(2016)『村上春樹論――神話と物語の構造』瑞蘭國際.
加藤典洋(2009)『村上春樹イエローページ 3』幻冬舎.
金水 敏(2018)「魅惑するナカタさんワールド」沼野充義(監修)・曽秋桂(編集)『村上春樹における魅惑』43-60頁、淡江大学出版中心.

 

金水 敏(きんすい さとし)

 1956年生まれ。博士(文学)。大阪大学大学院文学研究科教授。大阪女子大学文芸学部講師、神戸大学文学部助教授等を経て、2001年より現職。主な専門は日本語文法の歴史および役割語(言語のステレオタイプ)の研究。主な編著書として、『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』(岩波書店、2003)、『日本語存在表現の歴史』(ひつじ書房、2006)、『役割語研究の地平』(くろしお出版、2007)、『役割語研究の展開』(くろしお出版、2011)、『ドラマ方言の新しい関係―『カーネーション』から『八重の桜』、そして『あまちゃん』へ―』(田中ゆかり・岡室美奈子と共編、笠間書院、2014)、『コレモ日本語アルカ?―異人のことばが生まれるとき―』(岩波書店、2014)、『〈役割語〉小辞典』(研究社、2014)などがある。

 

 

 


 

 

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