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ルーン文字の遍歴

第6回 デンマーク王権のルーン石碑: ハーラル青歯王のイェリング・モニュメント

 千葉県のふなばしアンデルセン公園には、「ハーラルの石碑」と呼ばれる巨大なモニュメントが設置されています。ルーン文字の刻まれた石碑のレプリカですが、これが一体なんであるのかを知る人はほとんどいないでしょう。ハーラルとは10世紀半ばのデンマーク王であったハーラル青歯せいし王のことです。後述するように、この王は、デンマークの歴史にとって大変大きな痕跡を残した人物です。以前は渋谷区猿楽町にあるデンマーク大使館の玄関に置かれていたこのレプリカは、ある時にデンマークとつながりの深いこの公園に寄贈されて今に至ります。

 今回は、このハーラル王の石碑をめぐるお話をいたします。

1二つのイェリング石碑

 最初に、このルーン石碑を建立したハーラル青歯王の出自する王権について述べておきましょう。

 立憲君主制をとるデンマークは現在なお、王をいただく国家です。その歴史をたどると、ユトランド半島の中央部に位置するイェリングを拠点とした王権にまで遡ります。

 イェリング王権は、ゴーム老王(在位 10世紀前半-960年頃)、ハーラル青歯王(960頃-987年)、スヴェン双髭そうし王(987-1013年)、ハーラル(1013-1018年)、クヌート(1018-1035年)、ハーデクヌーズ(1035-1042年)という6人の人物が王位を継承した王権です。なかでも、高校世界史教科書にも記述され、幸村誠の『ヴィンランド・サガ』(2005年- )では主人公トルフィンのライヴァル役をつとめたクヌートは歴史上よく知られた人物です。彼は、イングランド、デンマーク、ノルウェーという三つの王国を同時に支配し、北ヨーロッパ全域に大きな影響を与えたヴァイキングの君主です。このクヌートの支配を頂点としたイェリング王権は、今なおデンマークの歴史に燦然と輝く時代として記憶されています。

 イェリングには、このデンマーク最初の王権の創生を証言する石碑が今なお存在しています。それは大小二つのルーン石碑です。まずはこの二つの石碑を確認しておきましょう。

 小イェリング石碑(DR41)は、イェリング王権の開祖ゴーム老王がその妻チューラを記念して建立させた石碑です。高さ139センチメートルの直方体の石碑の表と裏には、ルーン文字が縦列で次のように刻まれています。

図版1 小イェリング石碑 A面(表)(DR41;デンマーク・ヴァイレ県)

図版2 小イェリング石碑 B面(裏)(DR41;デンマーク・ヴァイレ県)

: kurmR : kunukR : : k(ar)þi : kubl : þusi : : a(ft) : þurui : kunu : sina : tanmarkaR : but :

訳:王ゴームは、デンマークの誉れであるその妻チューラを記念してこの碑をたてた

これに対して、ゴームの息子であるハーラル青歯王が両親を記念して建立した大イェリング石碑(DR42)は、高さ243センチメートルの三角錐という形状をとっています。

図版3 大イェリング石碑A面(DR42;デンマーク・ヴァイレ県)

図版4 大イェリング石碑B面(DR42;デンマーク・ヴァイレ県)

図版5 大イェリング石碑C面(DR42;デンマーク・ヴァイレ県)

三角錐のA面に4列、B面とC面にそれぞれ1列ずつあるルーン文字列の内容は次の通りです。

A面:haraltr : kunukR : baþ : kaurua kubl : þausi : aft : kurm faþur sin auk aft : þąurui : muþur : sina : sa haraltr (:) ias : sąR uan tanmaurk

B面:ala auk nuruiak

C面:auk t(a)ni ( karþi ) kristną

訳:王ハーラルは、その父ゴームと母チューラを記念してこの碑をたてるよう命じた。これなるハーラルは、全デンマーク、そしてノルウェーを手中にし、デーン人をキリスト教徒となした。

この大石碑は、デンマークに建つルーン石碑、さらに言えば現存するヴァイキングのルーン石碑の中で最も印象的な外観を持っています。つまりA面は一面を覆うルーン碑文であるのに対し、B面にはイェリング獣と呼ばれる動物の図像が、C面にはキリストの磔刑たっけい像が描かれ、その周囲を紐型装飾が取り囲んでいます。さらに言えば、現代の研究者は、本来ルーン石碑は、周囲に対してより強い印象を与えるために図版6のように彩色されていたと考えています。

図版6 大イェリング石碑の彩色レプリカ(デンマーク国立博物館)

そしてこの石碑のルーン文字列は、デンマークの歴史にとって大変重要な情報を私たちに伝えてくれます。つまり建立者であるハーラル青歯王が、デンマークを統一し、ノルウェーを支配し、デーン人をキリスト教へ改宗させたという歴史的事実です。通常歴史学者はこの三つの歴史的事実をまとめてハーラルの「三大事績」と呼んでいます。

 実のところ、イェリングに建つこの二つの石碑は、1994年に、隣接する教会と二つの墳丘と合わせて、デンマーク初の世界遺産「イェリング墳墓群、ルーン文字石碑群と教会」というモニュメントとして登録されました。同じく世界遺産のフランスのシャルトル大聖堂やイスタンブルのハギア・ソフィアのような派手さや壮麗さを認めることはできませんが、このイェリング・モニュメントが「三大事績」というデンマーク王国成立にかかわる歴史を証言しているという点に注目されたのでしょう。そのため、大イェリング石碑は、現在まで続くデンマーク王国成立のシンボルとして機能しているのです。そうした意図がふなばしアンデルセン公園の「ハーラルの石碑」にも込められていることを、私たちは知る必要があります。

2イェリング・モニュメントの再発見

 ユトランド半島中央部のイェリングは中世を通じて王領地でした。しかし、イェリング・モニュメントが注目を浴びるのは、自国の過去に対する意識が強くなる16世紀です。17世紀以降、オラウス・ウォルミウスのようなルーン学者により、イェリング・モニュメントは研究の対象となりました。近代考古学が確立した19世紀以降、何度かイェリングの発掘調査は行われ、記録と解釈が積み重ねられてきました。そして2006年以降の再発掘の結果、世界遺産登録の時にすら知られていなかった驚くべき事実が明らかとなりました(図版7参照)。

図版7 10-13世紀のイェリング・モニュメント(出典:Holst (2012), p. 478)
大イェリング石碑  小イェリング石碑  北墳  南墳  11世紀末から12世紀初頭の教会(木製建築物並びに10世紀半ばの墓室)  列石  防護柵  トレレボー型のものと同型のロングハウス  ヴァイキング時代の建築物 10 入口 11 12世紀の鐘楼跡(推定) 12 13世紀以降の建築物)

 一つは、全長170メートルに及ぶ船型列石が、墳丘の下に設置されていたことです。船型列石とは、北欧を中心に分布する船の形に石を一定間隔で並べた墓地です。スウェーデン南部の「アレの列石」(図版8)やデンマークのユトランド半島北部の「リンホルムの丘」(図版9)のものが著名です。

図版8 アレの列石(スウェーデン・スコーネ県)

図版9 リンホルムの丘(デンマーク・ノーユラン県)

加えて、ヴァイキング時代には船葬墓という墓式もありました。生前利用していたであろう船の上に死者を葬る、鉄器時代の北欧において発達した北欧特有の墓式です。北欧だけではなく、北欧出身者が拡大した地でも発見されることがあります。オスロのヴァイキング船博物館に列品されている3隻のヴァイキング船も、Netflix 映画『時の面影』(監督サイモン・ストーン、2021年)の舞台となったイングランド南東部で発見されたサットン・フー遺跡も、アッバース朝の使節イブン・ファドラーンが記録した北欧系集団ルーシの慣習も、いずれもそうです。いずれにせよ、ヴァイキング時代以前の北欧では、死者の船出という死後観念と結びついた、船による埋葬が行われていたと言えます。そうした中にあって、イェリングの170メートルの船型列石は、類例を見ない巨大な遺構なのです。

 もう一つは、イェリング・モニュメントそれ自体が、四方を防護柵で囲まれていたことです。一辺360メートルの柵内は合計12・5ヘクタールの空間が広がっており、その中に複数の建物が建設されていました。建物の一部は、デンマークの他の場所で発見されているトレレボー型防備施設のものと類似しており(図版10参照)、そうだとするならば、イェリングは、単なる墓地ではないことが推測されます。

図版10 トレレボー円形要塞(デンマーク・ヴェストシェラン県)

つまり、イェリング・モニュメントは、外敵から身を守る防護柵によって仕切られ、その中に数千人のヴァイキングを収容できる一種の要塞であったことが推測できるのです。そのように考えた場合、死者を記念するよりも「三大事績」に対する自画自賛を記憶させる大イェリング石碑は、巨大なモニュメントの威容とも相まって、ハーラル王の権威をデンマークに記憶させるメディアとしての機能を強く感じさせます。

 10世紀後半のイェリングは、イェリング・モニュメントという視覚的要素を伴う巨大要塞であり、ハーラル青歯王によるデンマーク支配の中核であったと考えられます。

3軍事要塞化するデンマーク

 ここでデンマーク全体に目を向けて、ハーラル青歯王の治世を振り返ってみましょう。

 ハーラルの父にしてイェリング王朝の祖ゴーム老王は、さほど力を持っていた王であるとは考えられていません。彼が妻チューラのために建立した石碑が、建立者のリソースを反映するルーン石碑としてはかなりこじんまりとしたことからも推測できます。実際のところ、そもそも出自すら不明のゴームは、王という称号をいただいていたとはいえ、おそらくユトランド半島中央部を支配していたに過ぎない人物であったように思われます。

 ゴームの死は960年頃と考えられています。その際、息子のハーラルは、先ほど述べた巨大な船型列石を父のために用意しました。それと同時に、従来の石碑とは比較にならないほど立派な大イェリング石碑とそれを収容するモニュメントを建立しました。ハーラルはゴームが死去する以前から強大な力を得ていましたし、それは父ゴームよりもはるかに強大な権力であったのです。

 ハーラルの権力を如実に示すのは、彼の治世にデンマークの各地に建設された複数の円形要塞です(図版10参照)。可能性のある要塞の痕跡はいくつか指摘されていますが、ユトランド半島北部に位置するアッガースボーとフィアカット、シェラン島西部のトレレボー円形要塞の発掘が進んでいます。いずれもヴァイキング時代特有の外観を持つ家屋であるロングハウスが防護柵の内部に幾何学的に並列しており、その規模は最大のアッガースボーで直径240メートルに達します。おそらく多数のヴァイキング戦士がここに集結したのでしょう。

 加えて、やはり10世紀後半のデンマークは、考古学者のエルセ・ロエスダールが「大建設の時代」と呼ぶように、各地が建築ラッシュに沸いていました。年輪年代測定法によってこの時代に、ユトランド半島を貫く道路やイェリング近郊のラウニン・エンゲの木製橋といった社会的インフラがデンマークに張り巡らされ、8世紀から大陸とユトランド半島との間に建設された防護柵ダーネヴィアケの改装も行われたこともわかっています。それと同時に王国内に都市的集落やキリスト教の司教座が地域の中心地として設置されました。木材、石材、鉱物資源、そして人材を大量に投下した建設ラッシュとも言えるハーラル治世期のデンマークは、それ以前とは全く異なる空間へと変貌したと言えます。

 ハーラルは、なぜこれほどまでの権力を急速に手中にしたのでしょうか。この点について明らかにした研究は管見の限りありません。しかしヴァキング時代全体の状況を考えると、スカンディナヴィア全体が奴隷交易を含む外部との経済ネットワークの中に組み込まれており、ハーラルもまた、略奪や交易を通じて利益を得ていたことが推測されます。その結果として、デンマークを統一し、ノルウェーを征服し、住民をキリスト教化するという「三代事績」を完遂し、古代文明の各地の初期王権が巨大建造物でその権力を人々に見せつけたように、イェリング・モニュメントを建設したのだろうと思います。実のところ、「デンマーク」という今に至る国名が初めて確認されるのも、このイェリングの二つの石碑なのです。

4大量死の時代とルーン石碑の建立

 ここで、ハーラルの時代におけるルーン石碑をめぐる状況の変化についても述べておきましょう。

 9世紀以降、ヴァイキングはユーラシア西部の各方面に拡大しました。彼らは各地で戦闘や交渉を繰り返し、金品財宝や奴隷を獲得し、その経済ネットワークを北大西洋からユーラシア西部にまで拡大しました。ハーラルの権力の源泉もそのネットワークがあってこそです。その一方で、ヴァイキング社会にもたらされたもう一つの重要な事実を私たちは喚起しなければなりません。すなわち、戦闘に伴う死者の増大です。

 現在ルーン石碑は北欧全体で3000ほどが伝来しています。その石碑の建立数は時代が降るにつれて増加し、ハーラルがデンマークを支配した10世紀後半からクヌートが北海に覇を唱えた11世紀前半にかけてのものが最も多く残っています。ルーン石碑はもともと「X は Y を記念してこの石碑を建てた」という定型文を含む死者記念碑であることを思い出しましょう。つまり、石碑が増えるということは死者も増えている、ということです。

 ルーン石碑は、ヴァイキングであれば、誰もが建立できたわけではありません。石碑を建立するためには、素材である石とさまざまな職人の力が必要となります。そのような行為を可能とするためには、一定程度以上の財力が前提となります。ルーン石碑は死者記念碑であると同時に、他者に見られることを前提とした公共的性格を持つ記念碑であり、建立者の権威を反映し、他のヴァイキングにその権威を見せつける政治的メディアでもありました。その結果として建立者は、多種多彩なテクスト、背景に刻まれた装飾、支持素材である石の大きさ等によって、他の石碑とは差異化されるようにつとめましたし、デンマークのグラーヴェンドロップ石碑(図版11)やスウェーデンのヴェストラ・ストロ・モニュメント(図版12)がそうであるように、いくつかのルーン石碑やその他の巨大な記念物と組み合わせることによって、モニュメント化されることがしばしばありました。

図版11 グラーヴェンドロップ石碑(DR209;デンマーク・フュン県)

図版12 ヴェストラ・ストロ・モニュメント(スウェーデン・スコーネ県)

実のところ、イェリング・モニュメントの周りにも、さまざまなモニュメント群が確認されています。イェリングにも負けるとも劣らない巨大な墳墓を建設した在地有力者らもいます。イェリング王権は確かにハーラル王の時代に急速に力をつけましたが、その周囲には、王権の他にも、極めて大きな力を持つヴァイキングたちが割拠していたことを、数々のルーン石碑と墳墓は想起させます。

 このような「お金のかかる」石碑と墳墓によって慰霊されるのは、一体どのような人物なのでしょうか。それは、ヴァイキング社会の中でも、力のある層に属していた戦士であることが想定できます。ヴァイキング社会は、もともと、自由農民と呼ばれる独立して農場を経営する戦士層が寄り集まってできた社会ですが、交易や略奪の活性化により富の流れが急速になりますと「持つ者」と「持たざる者」の格差は広がり、相対的に貧富の差が明らかとなり階層分化も進みました。従来は統一されないまま地域ごとに有力者が群雄割拠していたのに、10世紀後半にデンマーク・ノルウェー・スウェーデンそれぞれに急速に王権が成立したのも、そうした社会階層の分化の結果であると言えます。

 そのように考えた場合、ルーン石碑の建立が増加するのは、こうした社会の上層部を占める戦士層が戦闘などで大量死していることをも意味します。ビルギット・ソーヤーは、建立者と死者との関係を明示するルーン石碑それ自体が、単に死者を慰霊するだけでなく、死者の財産が誰に属するのかを共同体に示すメディアであることを論じました。私は十分にありうる見解だと思いますし、そうであるからこそ、死をも恐れぬ勇猛なヴァイキングこそ讃えられるべしという価値観が北欧全体で共有されていたのだろうと推測できます。

5ハーラルからスヴェンへ

 「大建設の時代」を招来したハーラル王も、987年、息子のスヴェンによって王国を追われました。その理由は明確ではありませんが、あまりにも急激な中央集権化が、デンマーク・ヴァイキングらの負担になっていたことは想定して良いと思います。燻っている不満をうまく掬い上げたスヴェンは父親を追放し、その後990年代より、イングランドへの侵攻を開始します。20年にわたる武力闘争の結果、1013年にスヴェンはイングランド王(在位1013-1014年)の地位を獲得しました。

 スヴェンもまた、その名を刻んだ石碑(DR3)をユトランド半島の付け根にある交易地ヘゼビューに残しています。ほぼ直方体の石碑の表と裏には、以下のルーン文字が刻まれています。

図版13 スケルゼの石碑 A面(DR3;ハイタブ・ヴァイキング博物館所蔵)

Side A: : suin : kunukR : sati : stin : uftiR : skarþa sin : himþiga : ias : uas : farin : uestr : ian : nu :

Side B: : uarþ : tauþr : at : hiþa : bu

訳:スヴェン王は、西方で命を落とし、いまはヘゼビューに埋葬される従者スケルゼを記念してこの石を建てた。

この石碑は、スヴェンが自身の従者スケルゼを記念して建立したものです。さほど大きくありませんが、王は自身の従者が死ぬと石碑を建立していたことが推測できます。そうした従者は多数にのぼったであろうことから、このような石碑はおそらく大量生産されていたことも推測されます。王が事業を達成するために、家族以外とのつながりをより深めつつあったその結果であるのかもしれません。

 スヴェンの子クヌートは、自身が建立した石碑を残してはいません。キリスト教信仰に基づく支配へと大きく舵を切ったクヌートは、死者の慰霊に際して、石碑建立ではなく、死者の墓地への埋葬と聖職者による祈祷をもって応えたと推測されます(図版14)。

図版14 信仰心あついクヌートと妻エンマを描いた写本挿絵
(1031年、British Library, Stowe Ms 944, folio 6)

他方で、11世紀初めのクヌート支配下のイングランドでもルーン石碑は作成されていましたし(図版15)、北欧でもクヌートの部隊にいたことを証言する石碑も残っています(図版16)。

図版15 セントポール大聖堂石碑(E2;イングランド・ロンドン)

図版16 オルケスタ石碑(U344;スウェーデン・ウップランド県)

王自身の行動様式と宗教心性は変わりつつありましたが、ルーン石碑を建立する習慣はまだ続いていました。

 

〈参照文献〉

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小澤 実(おざわ みのる)

 1973年愛媛県生まれ。立教大学文学部史学科世界史学専修教授。専門は西洋中世史。著書に、『辺境のダイナミズム』(共著、岩波書店)、『知のミクロコスモス――中世・ルネサンスのインテレクチュアル・ヒストリー』(共編著、中央公論新社)、『北西ユーラシアの歴史空間』(共編著、北海道大学出版会)、『近代日本の偽史言説――歴史語りのインテレクチュアル・ヒストリー』(編著、勉誠出版)、『歴史学者と読む高校世界史――教科書記述の舞台裏』(共編著、勁草書房)などがある。NHK TV アニメ『ヴィンランド・サガ』の時代考証を担当している。

 

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