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ルーン文字の遍歴

第10回 ルーン学の誕生: ヨハンネス・ブレウスとオラウス・ウォルミウス

 前回まで、2世紀に誕生した24文字の古フサルク、8世紀に変化した16文字の新フサルク、そして12世紀から18世紀にかけての30文字前後になる中世ルーンが、その時々の社会の中でどのように利用されてきたのかを確認してきました。言ってみれば、1500年にわたるコミュニケーションの道具、つまり「我が文字」としてルーン文字を利用した歴史を後付けてきたと言えるかもしれません。今回は、そうした歴史あるルーン文字を、「過去の文字」として利用した人々に焦点を当てます。とりわけ、スウェーデンのヨハンネス・ブレウス(Johannes Bureus, 1568-1652)とデンマークのオラウス・ウォルミウス(Olaus Wormius, 1588-1654)に注目します。

1北欧における「古代」の発見:ゴート・ルネサンス

 理念的にはローマ教皇と皇帝が君臨する西欧中世の終焉は、古い高校世界史の言い方を借りるならば、人文主義、大航海、宗教改革によって完了します。北欧もその洗礼を受けましたが、とりわけ、宗教改革の影響が顕著でした。1517年にマルティン・ルターが教皇への疑問を宣言した「95ヶ条の提題」を貼り出したヴィッテンベルク大学が、バルト海のすぐ向こう側のドイツにあったからです。1523年に、デンマーク・ノルウェー・スウェーデンの3国が同一の君主を有する同君連合であったカルマル連合が解体し、カトリックからプロテスタントへの宗教地図の書き換えが進む中、スウェーデンは1527年にグスタフ・ヴァーサ(のちのグスタフ一世、Gustav Vasa, 1496-1560)により、デンマークは1536年にクリスチャン三世(Christian III, 1503-1559)により、ともにルター派を国教とするプロテスタント国家体制に移行しました。

 このような動きの中で進んだ北欧のルネサンスは、イタリアでの古典古代の復興とは異なる古代復興を伴っていました。自らの過去をゴート人と結びつけるゴート・ルネサンスです。ゴート人とは、4世紀にローマ帝国に侵入し東ゴート王国と西ゴート王国を建設したゲルマン人の一派です。1434年のバーゼル公会議では、スウェーデン南部のヴェクシェーで司教を務めたニコラウス・ラグヴァルディ(Nicolaus Ragvaldi, 1380-1448)が、スウェーデンを他のヨーロッパ諸国と区別し、「ゴート人の末裔」の国だと宣言しています。

 ゴート・ルネサンスにとって決定的な役割を果たしたのはヨハネス・マグヌス(Johannes Magnus, 1488-1544)とオラウス・マグヌス(Olaus Magnus, 1490-1557)のマグヌス兄弟です。スウェーデンのウプサラ大司教であった兄のヨハネスは、上述したグスタフ・ヴァーサによるルター派の国教化により、ローマへの亡命を余儀なくされました。そこでヨハネスは、スウェーデンの太古以来の歴史をゴート人との関係において記述する『ゴート人とスヴェア人のすべての王国に関する歴史』(Historia de omnibus Gothorum Sueonumque regibus)という長大な歴史書を執筆しました。ヨハネスは程なく世を去りましたが、弟オラウスが兄の遺志を引き継ぎ1544年に兄の遺著を出版しました。この歴史書の刊行前に、オラウスはさらに歩を進めており、1539年には北欧全体を描いた「海図」(Carta marina)と呼ばれる木版画の大判地図(縦170cm, 横125cm)をヴェネツィアで刊行しました。

図版1 カルタ・マリナ全図(ヴェネツィア、1539)

北欧を描いた地図は15世紀からありましたが、「海図」は、北欧人がどのように自らの生活空間を認識していたのかを如実に示す貴重な証言です。1555年には彼自身が、北方世界の習俗を概観する『北方民族の歴史』(Historia de gentibus septentrionalibus)をローマで刊行しました。これは谷口幸男により『北方民族文化誌』として日本語訳も刊行されている、16世紀北欧各地での様々な習慣を記録する民俗文化誌です。

 

図版2 オラウス・マグヌス(谷口幸男訳)『北方民族文化誌』(渓水社、1991-92)

 同書で重要となるのは、著作の中で「ゴート人」のアイデンティティを支える要素として取り上げられたのが「ゴート人の文字」、すなわちルーン文字という点です。北欧でも、12世紀のヴァイキング時代末期以降、キリスト教が普及するに従って、コミュニケーション手段がルーン文字からラテン・アルファベットに移行しつつあったことは、これまでの連載でも確認してきました。『北方民族文化誌』の第1書36節には以下のような図版も掲載されています。

図版3 『北方民族文化誌』に収められた「ゴート人の文字」

2古物学者ヨハンネス・ブレウス

 以上のゴート・ルネサンスの動きを受け、スウェーデン王国で、「ゴート人の文字」という観点からルーン文字の研究に着手したのがヨハンネス・ブレウスです。1568年にウプサラの教区司祭の息子として生まれた彼は、国王ヨーハン三世(Johan III, 在位1568-1592年)のもとで国家官僚となりました。

図版4 ヨハンネス・ブレウスの肖像画(1627)

 ウプサラのあるウップランド地方にはルーン文字の刻まれた石碑が多数そそり立っています。私たちがこれまで確認してきたルーン石碑の多くもこの地域のものです(連載第4回)。このような素材に恵まれた環境のなかでブレウスは、生涯にわたりルーン研究を続け多くの著作を残しました。彼の最初の刊行物は、1599年にウプサラで出版された『ルーンの知識に関する教本』(Runakenslanes läraspån)と呼ばれる大型銅版画です。

図版5 『ルーンの知識に関する教本』(1599)

スウェーデン各地に伝わる様々なタイプのルーン文字を収集し比較したこの銅版画は、研究手法の雛形を提示したという意味で、ルーン学の歴史にとって記念碑的な存在となりました。

 その後ブレウスは、絶え間なくスウェーデンに点在するルーン石碑を模写し、48の碑文テクストを収める『これまでに刻まれたスヴェアならびにゴートの記念碑』(Monumenta Sveo-Gothica Hactenus Exsculpta, 1624年)や、およそ200のテクストを記録する『ルーン記念碑集成』(Monumenta runica, 1650年)などいくつかの著作を執筆しました。お手軽な入門書として、『ルーン文字 ABC』(Runa ABC boken, 1611年)もあります。

 このような学術的研究を進める一方で晩年のブレウスは、神秘主義思想にも傾倒しました。彼は、16世紀に入ってバルト海世界に流入してきたパラケルスス主義や薔薇十字思想に関心を持ち、なおかつユダヤの神秘主義であるカバラ思想をも加味して、独自の思想を打ち立てました。その「成果」の一つが、『再生したアーダル・ルーン』(Adalruna rediviva, 1642年)で展開される「アーダル・ルーン」(Adalrune)と呼ばれる神秘主義的なルーン文字解釈です。この場合のアーダルとは「高貴な」を意味しますが、かいつまんで説明しますと、ルーン文字をただコミュニケーションの手段としての「文字」として解釈するのではなく、さらに上位の「意味」を伝える「高貴な」文字であった、とする理解です。こうしたルーン文字の解釈は、スウェーデンにおけるその後の神秘主義的なルーン文字解釈の底流を規定しました。余談ですが、「アーダル」はなぜかスウェーデンのメタルバンド「セリオン」(Therion)の2014年発売の DVD のタイトル(Adulruna rediviva and beyond)にも採用されています。

 ブレウスの研究はルーン学のみならず、ゴート・ルネサンスを次の段階に押し進めました。その背景には、文字ならびに言語の起源を探求することが民族のアイデンティティを確立するという当時の知的世界における潮流があったことは指摘しておかねばなりません。その後のスウェーデンにおけるルーン研究は、より愛国主義的な傾向を持つことになりました。その代表者が、ウプサラ大学の医学部教授ウーロヴ・ルドベーク(Olof Rudbeck, 1630-1702)です。ルドベークは1675年に執筆した3000ページを超える『アトランティカすなわち人間の故郷』(Atland eller Manheim) において、ルーン文字のもつ古さを根拠にゴート人国家であるスウェーデンこそがノアの息子であるヤフェトの子孫が住まった地であり、プラトンが伝える理想郷アトランティスに比定しうると主張しました。

図版6 『アトランティカすなわち人間の故郷』の表紙挿絵
(プラトンやアリストテレスなどの古代の哲学者たちに自説を主張するルドベークが描かれている。)

ルドベークを一つの頂点としてスウェーデンにおける愛国主義的なルーン研究は次第に退潮し、分類学の父と呼ばれる植物学者のカール・フォン・リネー(リンネ)(Carl von Linné, 1707-1778)へとつながる近代学問への道が開けてきます。

3イェリング石碑の発見

 以上のようにブレウスの登場によって、スウェーデンではゴート・ルネサンスの精髄としてのルーン研究が端緒についたと言えます。それでは隣国デンマークではどのような状況であったのでしょうか。

 デンマークにおけるルーン研究にとって最大の契機となったのは、16世紀末におけるイェリング石碑の再発見です。連載第6回で詳述したように、イェリング石碑とは、ユトランド半島中部に位置するイェリングという集落に立つ大小二つの石碑を指します。そのうち小イェリング石碑は、史料上確認できるデンマーク最古の王であるゴーム老王が妻チューラのために、大イェリング石碑は両者の息子ハーラル青歯せいし王が両親を記念して建立したものです。いずれも、現在の王室につながる情報を記録していますから、デンマーク王国にとっては国宝と言って良い遺物です。

 960年ごろに建立され、中世のいずれかの段階でいったんは失われた二つのイェリング石碑は、1586年から翌年にかけてユトランド半島南部のコルディンフースの州長官カスパー・マークデーナ(Caspar Markdanner, 1533-1618)により再発見されました。石碑発見の情報を受け、その重要性をただちに認識した知識人はドイツのホルステン(ホルシュタイン)州生まれでデンマーク王の知事として当地を統治していたハインリヒ・ランツァウ(Heinrich Rantzau, 1526-1598)です。ランツァウは16世紀の政治家としても古物学者としても著名な人物ですが、役人でもある彼にとって、王室の祖を記念するイェリング石碑の再発見は大きな衝撃であったことは容易に推測されます。それまで、13世紀にサクソ・グラマティクス(Saxo Grammaticus, 1150-1220)の『デンマーク人の事績』(Gesta Danorum)のような歴史書でのみ知られていたデンマーク王家の歴史が、ルーン石碑という、モノによって確証されたわけですから。彼は、再発見間もない石碑を含むイェリング墳墓を描写した銅版画を、ただちに作製させました。

図版7 ハインリヒ・ランツァウの指示で描写されたイェリング墳墓(1591)

この版画はよほど多くの人の関心を惹いたのでしょう、国境を越えて初期近代のヨーロッパ大陸にも流布しました。

 「ゴート人の文字」と北欧人が主張しているルーン文字が刻まれた古遺物がデンマークやスウェーデンにたくさん残っていることは、ラテン語書簡を通じて情報を共有する「文芸共和国」の盛んなりしこの時代においては、知識人の共通常識になっていました。このような状況を背景としてルーン研究に金字塔を打ち立てたのがデンマークのオラウス・ウォルミウスです。

4ウォルミウスのルーン研究と愛国主義

 ウォルミウスは、オランダに起源をもつ商人家系の市長の息子として、1588年、ユトランド半島の東岸にあるオーフス市に生まれました。

図版8 オラウス・ウォルミウスの肖像画(サイモン・ヴァン・デ・パッセ画、『デンマークの暦』[1626年]より)

同市の文法学校で古典語を修めたのち、彼はドイツのマールブルク大学に籍を置き、ヨーロッパ各地を遍歴した後の1611年にスイスのバーゼル大学で博士号を取得しました。デンマークに帰国後、ラテン語ならびにギリシア語の教師を務めたのち、国王クリスチャン4世(Christian IV, 在位1588-1648年)の宮廷侍医ならびにコペンハーゲン大学の医学部教授の職を得ます。

 ウォルミウスは医師であると同時に古遺物研究者でもありました。その仕事として最も著名なものは、彼の死後、1655年にアムステルダムで出版された『ウォルミウスの博物館もしくは希少な事々の歴史』(Museum Wormianum seu Historia rerum rariorum)です。ここで記述される「ウォルミウスの博物館」(Museum Wormianum)は、コペンハーゲンの国立博物館の前身でもあり、初期近代ヨーロッパに特徴的な「驚異の部屋」(Wunderkammer)と呼ばれる珍品陳列室で最も著名なものの一つです。

図版9 『ウォルミウスの博物館もしくは希少な事々の歴史』の中の木版画

この部屋に収蔵された遺物は大きく分けて、新大陸からの産品のような非ヨーロッパ世界からの流入物とキリスト教化以前の北欧の遺物によって構成されています。それらの中でとりわけウォルミウスの関心を惹いたのはルーン文字です。彼は、1619年の友人ベテル・クヌーセン・アクイローニウス(Bertel Knudsen Aquilonius, 1588-1650)宛の書簡にある「ゴート文字」(Gothica)、つまりルーン文字についての言及に見られるように、ルーン文字に対する関心を次第に高めていきました。

 ウォルミウスのルーン研究は4冊の書物に結実します。最初の著作はルーン文字の刻まれた暦を扱った『デンマークの暦』(Fasti Danici, 1626)、第二の著作は、当時デンマーク領であったスコーネ地方にある特定の石碑を扱った『トゥルスホイ、すなわちスコーネのストレーネ・モニュメント』(Tulshøi seu Monumentum Strøense in Scania, 1628)です。試掘坑のようなこれら二つのモノグラフをうけて、ウォルミウスは1636年に『ルーン、すなわちデンマークの最古の文字列』(Runir, seu Danica literatura Antiquvissima) という第三の著作を刊行しました。同書で彼は先述のスウェーデンのブレウスを意識します。つまり、ブレウスがルーン文字はスウェーデン起源であると主張したのに対し、デンマークに起源があると反論しました。カルマル連合以来のデンマークとスウェーデンのライヴァル意識が、ルーン文字の起源をめぐって、ここに噴出した形になります。

 ルーンに関する上記の三つの作品を下敷きとし、1643年にコペンハーゲンで刊行されたのが『デンマークの古遺物に関する6書』(Danicorum Monumentorum Libri Sex)です。本書こそ、ルーン学者としてのウォルミウスの名前を不朽のものとし、その後のルーン学のあり方を決定づけた作品です。その内容を確認しておきましょう。そのタイトルの通り6書から構成されるこの著作は、第1書がデンマーク古史についての総論であり、残りの5書がデンマーク王国における監督区ごとの具体的な遺物を紹介しています。第2書ではシェラン島の遺物を、第3書はスカンディナヴィア半島南部のスコーネ・ハッランド・ブレキンゲ・ボルンホルム島を解説しています。第4書はフュン島とロラン島を、第5書ではユトランド半島とゴットランド島を、第6書は、1380年以来デンマーク王が王位を兼ねていたノルウェーを扱っています。

 ここで注目すべきは、同書が対象とする「デンマーク」の範囲が1643年における王国の支配領域に対応している点です。ユトランド半島、フュン島ならびシェラン島を中心とする島嶼部から構成される現在の領土と異なり、初期近代のデンマークはより広い空間を国土としていました。すなわち、現在の王国の版図にくわえて、今ではスウェーデン領であるスカンディナヴィア半島南部ならびにゴットランド島を自国領とし、国家としては別個の存在であるノルウェー王国を1380年以来の連合王国として実質的に支配下に置きました。そういった意味においては、ウォルミウスのルーン研究は、上述したスウェーデンのブレウスとの個人的な角逐というにとどまらず、デンマーク対スウェーデンという、初期近代の「大国」のライヴァル意識を、ルーン文字の起源をめぐるという文字の研究に託した作品であったということができるかもしれません。

 

 以上のような文脈で、スウェーデンとデンマークにおけるルーン文字研究ははじまりました。今の私たちから見れば、余計なものを背負っているなあという気持ちになるかもしれませんが、ブレウスもウォルミウスも国家に仕える知識人です。こうした愛国主義に基づきデータを収集しライヴァルを徹底的に叩きのめす、という知識人の振る舞いは、初期近代ヨーロッパの至る所で見ることができます。何が知識の糧になるのか、人それぞれということでもあります。

 

〈参照文献〉

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小澤実「ゴート・ルネサンスとルーン学の成立――デンマークの事例」ヒロ・ヒライ/小澤実編『知のミクロコスモス:中世・ルネサンスのインテレクチュアル・ヒストリー』(中央公論新社、2014年)、69-97頁。
ボーツ、ハンス/ヴァケ、フランソワ(池端次郎・田村滋男訳)『学問の共和国』(知泉書館、2015年)。
マグヌス、オラウス(谷口幸男訳)『北方民族文化誌』(渓水社、1991-92)。
Åkerman, Susanna. “The Gothic Kabbala: Johannes Bureus, Runic Theosophy, and Northern Apocalypticism”, The Expulsion of the Jews: 1492 and after, ed. Raymond B. Waddington, and Arthur H. Williamson, New York: Garland, 1994, pp. 177-198.
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Worm, Ole, Breve fra og til Ole Worm, vol. I-III, oversat (fra latin) af H. D. Schepelern og H. F. Johansen. København: Munksgaard, 1965-68.

 

小澤 実(おざわ みのる)

 1973年愛媛県生まれ。立教大学文学部史学科世界史学専修教授。専門は西洋中世史。著書に、『辺境のダイナミズム』(共著、岩波書店)、『知のミクロコスモス――中世・ルネサンスのインテレクチュアル・ヒストリー』(共編著、中央公論新社)、『北西ユーラシアの歴史空間』(共編著、北海道大学出版会)、『近代日本の偽史言説――歴史語りのインテレクチュアル・ヒストリー』(編著、勉誠出版)、『歴史学者と読む高校世界史――教科書記述の舞台裏』(共編著、勁草書房)などがある。NHK TV アニメ『ヴィンランド・サガ』の時代考証を担当している。

 

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