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日米と外国語

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青年の蔵 (『英語青年』の過去記事)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2010-3-22 19:40
また戦争中の『英語青年』から。
日米と外国語

日米抑留外交官交換に伴つて先般天津発帰国した一英字新聞社長 Charles Fox は出発前天津広播電台から放送した、其一節にいふ、『日本人中には英語及び英文をよく解する者多数ある関係上米英人をよく知り且つ米英両国の国情もよく知り得るに反し、英米人は日本語に関する限り全く無知と云ひ得る、真に日本人を理解し日本の実情を認識し得る者は僅々数人に過ぎない。某政治家曰く「他国を破らんと欲せば宜しくその国の国語を学ぶべし」と。これは通商その他競争関係においても同様である。相互の理解を欠くは紛争の本であり、一度紛争を生ずれば相手方を完全に理解する方が必ず有利の立場となる。日本の多数の政治家が米国の実情を熟知するに反し米国の政治家に日本の実情を認識する者少なきため現在の如き戦争の勃発を見たのであらう。』(1942年12月1日号)

英語教育の排斥

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青年の蔵 (『英語青年』の過去記事)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2010-3-20 21:00
久しぶりに図書館の地下集密書架に入って『英語青年』のバックナンバーを拾い読みした。1942年11月1日号には次の記事がある。
英語教育排斥を叫ぶ者

「イタリア」七月号の巻頭言で、大原明敏氏は英語教育排斥を叫んでいふ、『皇軍は血を流して米英軍と戦ひつつあるのに、国内では旧態依然として英語教育を続行し、甚しき児童にまで英語を教へてゐる。理屈を捏ればどうにでもつくが、現実に対する感情は欺けない。英語習得用教科書には、何れも巧みに米英尊重の思想や彼等の自由主義的人生観や利己的処生術が織込まれ、不知々々に彼等を崇拝し、その文化を敬慕するやうに導いてゆく。米英人の生活を知り感情を理解せんと努めたる過去の教育思想こそ憎むべし。しかるに今日に及んでも尚且つその方針を堅持し、しかして八紘為宇の大精神を昂揚せんと試みるとはこれ程矛盾した教育法があるであらうか。...』
キャンパス内の図書館では、1943年から1946年までの『英語青年』が欠号しているので、機会があったら別のところで、戦争末期までこの雑誌が英語教育の排斥を叫ぶ人たちにどのように対応したか読んでみたい。

渋谷にも文化あり

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くもの脚(著者が散歩などで発見したこと)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2010-3-17 21:00
先日、東京・渋谷のヨシモト∞ホールで開催された「渋谷文化茶会 其ノ壱」に行ってみた。このイベントは、渋谷で活躍している5人による講演とパネルディスカッションから構成され、約100人の観客を集めていた。ざっと見渡したところ、その中には渋谷の文化を象徴するコギャルやセンターガイなどがまったくいなくて、ほとんどは渋谷で商売しているビジネスマンやそれをサポートするクリエイターたちのようだった。

堅い学問の枠内のみで「文化」について考えることが多くなった私にとって、渋谷という活気あふれる街の文化について考察するチャンスが与えられたのは新鮮だった。パネリストの一人、松永芳幸さんが 1990 年代にコスプレ・ダンス・パーティというものをプロデュースして、その後、秋葉原初のメイドカフェを開店した人だと聞くと、私が普段接触することのない、現在もっとも生き生きとした日本文化を代表するリーダーを生で見ているのだと少し感動した。渋谷には 24 時間営業の美容室があって、朝 4 時でもネイルやヘアメークができるということも、地元デパートの月刊誌を編集する高野公三子さんの話を聞くまでは、毎日渋谷を通る私も知らなかった。

言葉関係では、発表者たちの口からカタカナ語が多く発せられた、という印象が強かった。メモらなかったのでここでは上記の「クリエイター」や「プロデュース」など以外はリストアップできないが、観衆に一般の日本人がいれば話の内容が半分しか通じなかった部分もあったと思う。「エーアール」という言葉は何回も使われていたが、私を含む多くの人が分からない顔をしていたので、それは augmented reality(AR、拡張現実)の略であると高野さんが説明してくれた。

私はその時点で、洒落た渋谷の真ん中にいながら渋谷らしくない辞書について考えるようになってしまった。「AR」という技術は将来、辞書にも応用できないか、と想像してみた。例えば、街を散歩するときに名前の知らない物を見かけたら…

…電子辞書のカメラをそれに向けると物の名前を表示する…

…ことができたら面白いのではないか。

辞書と言えば、私は4月24日に、三省堂書店神保町本店で「辞書オタクから辞書学者へ、そして再び辞書オタクへ」というタイトルで話すことになった。私のエッセーが入っている本を買っていただかなければならないが、ご興味のある方はぜひご来場ください。

討議のうろ覚え

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くもの舌 (言葉について気が付いたこと、考えたこと)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2010-3-11 21:20
前回、討議に関する討議の予告編を書いたので、今回はその結果報告をすべきだろう。しかし、私自身も討議にのめりこんでいたためか、今となってはその詳細をよく思い出せない。特に、私がこのブログで提案した討議の「文法ルール」が適用されていたかどうかわからない。討議は録音されていたので、後日、報告書などで文字化されたときに、その「文法」の分析に取り組もうと思う。ここではとりあえず、まだはっきり覚えている討議の設定と終わり方だけを報告する。

大学のホールで、80人ぐらいの傍聴者に囲まれて8人の討議者が輪を作って座っていた。その一人が司会を務めたが、話の内容はそれぞれの討議者に任せられていた。普通のパネル・ディスカッションとの違いは、我々討議者は互いの顔も聴衆の顔も常に見えていたため、話している間も他の討議者や聴衆を同じように意識していたことだ。そのためか、普通のパネル・ディスカッションより討議らしい討議になったと思う。

終わり方で面白かったのは、時間が大幅にオーバーしたことだ。8人の討議者の話はだいたい時間内に終わったが、質疑の時間が始まると、討論に参加したい熱心な人が多く現れた。「ぜひ、私に話させてください!」と大声で叫んだ大学生もいた。その人たちの参入で討議がますます面白くなったので、結局、予定より1時間ぐらい延びて終わった。中座した人も数人いたが、ほとんどの人たちは最後まで残ってくれた。

公開の討論が終わったら、討議者たちは場所を変えて、食事を摂りながらまた3時間ぐらい議論を続けた。これも初めのうちはどんどん面白くなる一方だったが、後半のほうになると、疲れとアルコールの影響で討議の質がついに落ちるようになった。それでも、たいへん「良い討議」だったと私は感じていた。

私がこれから研究しようと考えている討議の文法学では、討議の終わり方が一つの重要な課題になりそうだ。というのは、だらだら続く無駄な討議はもちろん良くないが、有益な討議すら長く続いてしまうと、その内容がどんなに良くても「ずっと座っていてお尻が痛くなった」といったような記憶しか残らないこともある。「良い討議は予定より長くなる場合もあるが、最良の討議は参加者や傍聴者が肉体的な疲労を感じて注意力が散漫になる前に終了する」をもう一つの討議の文法ルールにしよう。

討議の重要性はくも本でも論じられている。Robert Watersの Culture by Conversation(1907年)のイントロに次のようなことが書かれている。
It is a strange thing that although there have been written, within the last twenty-five years, more books on education, mental, moral and physical, than perhaps in all the years before, scarcely anything has been written on Conversation as an educational factor. And yet, as the writer proposes to show, no agency is more powerful in the development of the mind, in the gaining of culture, in the formation of character, in the creation of ideas, in the inspiration of literary workers, and in the achieving of professional and social success, than this little-prized intellectual exercise.(妙なことに、この25年の間だけで、以前よりも多くの本が、知的、道徳的、肉体的な教育について執筆されているが、教育の要素としての会話についてはほとんど何も書かれていない。しかし、著者はこれから示そうとしているのだが、知力の発達、教養の習得、人格の形成、アイディアの創出、文筆家の着想、そして仕事や社会的な成功には、会話という軽視されがちな知的活動よりも有効な手段はない。)


討議について討議する

カテゴリ : 
くもの舌 (言葉について気が付いたこと、考えたこと)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2010-2-25 6:00
来週の月曜日に、「討議について討議する」というシンポジウムで討議することになった。このシンポは、大学生の討議力をいかに強化できるかを追求するプロジェクトの一環として開催される。

昨年の11月には、同じプロジェクトの
シンポジウムで、大学の授業に討議をどのように導入できるかが、さまざまな視点から議論された。しかし、討議の構成、すなわち討議者がどのような内容をどのような順番で発言すべきかについては触れられなかった。それ次第で「良い討議」と「悪い討議」に分かれてしまうはずだが、その違いも見えてこなかった。

討議には、良いものと悪いものが存在すると、我々は経験的によく知っている。討議が終わって参加者や傍聴者が「面白かった」「いろいろ学んだ」「これで次の段階へ進めるようになった」などと考えたら、それは良い討議である。逆に、「このつまらないやり取りはいったい、何のためだったのか」と思ったら、悪い討議である。

「良い討議」と「悪い討議」の対比は、「文法的に正しい文」(grammatical sentence)と「文法的に正しくない文」(ungrammatical sentence)の対比と同様であるはずだ。というのは、討議の良し悪しは、その内容ではなく、形式上の成り立ちで決まってしまうから。文法の場合は、ルールに従って文を作れば、その文が「良」となり、ルール違反を起こすと、文は「悪」となる。文で言っていることは関係ない。チョムスキーの
Colorless green ideas sleep furiously. と Furiously sleep ideas green colorless. はまさに同様の違いだ。論理学では、「女性は人間である。花子は女性である。故に花子は人間である。」という「良い推論」と「女性は人間である。花子は女性である。故に人間は女性である。」という「悪い推論」は同じ。旅行で、「ずんずん目的地に着いた」場合と「迷いまくって道端に座り込んで泣いてしまった」という場合に分かれる、「良い旅」と「悪い旅」の対比にも似ている。

まだ深く考えていないが、もしかしすると討議の良し悪しを決定する文法には次のようなルールがあるかも知れない。(括弧内はルールの仮称。)

  • 各発言はその前の発言と関連する。(継続の規則)
  • 前の発言と関連していない発言は、その後の討議に貢献する。(脱線の制限)
  • 同じやり取りは繰り返さない。(諍いの禁止)
  • 発言の内容は発言者以外の参加者には未だ知られていない。(新鮮さの維持)
  • 討議全体から新しい知識や結論が生まれる。(新規性の追求)

 

ただし、「良い討議」の中で発言がどのような順序で進むべきなのか、またこれらのルールがどのように絡み合っているのかなど、分からないことが多い。特に大学生などが討議の文法をどのように習得して「良い討議」をできるようになるのか、私には不明だ。

月曜日の討議がどんな方向に行くかは現時点ではまったく分からない。(「討議の方向は討議を始めるまで不明だ」を討議の文法ルールに追加しよう。)でも、そこから「良い討議とは何か」という問いへの答えが少しでも見えてきたら、良い討議になるのだろうと思う。

何も貢献しない脱線だが、新しい文法を考えると「Rules Grammar Change: English Traditional Replaced To Be New Syntax With」という The Onion
記事を思い出す。一読をお勧めする。


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