日米と外国語日米抑留外交官交換に伴つて先般天津発帰国した一英字新聞社長 Charles Fox は出発前天津広播電台から放送した、其一節にいふ、『日本人中には英語及び英文をよく解する者多数ある関係上米英人をよく知り且つ米英両国の国情もよく知り得るに反し、英米人は日本語に関する限り全く無知と云ひ得る、真に日本人を理解し日本の実情を認識し得る者は僅々数人に過ぎない。某政治家曰く「他国を破らんと欲せば宜しくその国の国語を学ぶべし」と。これは通商その他競争関係においても同様である。相互の理解を欠くは紛争の本であり、一度紛争を生ずれば相手方を完全に理解する方が必ず有利の立場となる。日本の多数の政治家が米国の実情を熟知するに反し米国の政治家に日本の実情を認識する者少なきため現在の如き戦争の勃発を見たのであらう。』(1942年12月1日号)
キャンパス内の図書館では、1943年から1946年までの『英語青年』が欠号しているので、機会があったら別のところで、戦争末期までこの雑誌が英語教育の排斥を叫ぶ人たちにどのように対応したか読んでみたい。英語教育排斥を叫ぶ者「イタリア」七月号の巻頭言で、大原明敏氏は英語教育排斥を叫んでいふ、『皇軍は血を流して米英軍と戦ひつつあるのに、国内では旧態依然として英語教育を続行し、甚しき児童にまで英語を教へてゐる。理屈を捏ればどうにでもつくが、現実に対する感情は欺けない。英語習得用教科書には、何れも巧みに米英尊重の思想や彼等の自由主義的人生観や利己的処生術が織込まれ、不知々々に彼等を崇拝し、その文化を敬慕するやうに導いてゆく。米英人の生活を知り感情を理解せんと努めたる過去の教育思想こそ憎むべし。しかるに今日に及んでも尚且つその方針を堅持し、しかして八紘為宇の大精神を昂揚せんと試みるとはこれ程矛盾した教育法があるであらうか。...』
…電子辞書のカメラをそれに向けると物の名前を表示する…
…ことができたら面白いのではないか。
It is a strange thing that although there have been written, within the last twenty-five years, more books on education, mental, moral and physical, than perhaps in all the years before, scarcely anything has been written on Conversation as an educational factor. And yet, as the writer proposes to show, no agency is more powerful in the development of the mind, in the gaining of culture, in the formation of character, in the creation of ideas, in the inspiration of literary workers, and in the achieving of professional and social success, than this little-prized intellectual exercise.(妙なことに、この25年の間だけで、以前よりも多くの本が、知的、道徳的、肉体的な教育について執筆されているが、教育の要素としての会話についてはほとんど何も書かれていない。しかし、著者はこれから示そうとしているのだが、知力の発達、教養の習得、人格の形成、アイディアの創出、文筆家の着想、そして仕事や社会的な成功には、会話という軽視されがちな知的活動よりも有効な手段はない。)
ただし、「良い討議」の中で発言がどのような順序で進むべきなのか、またこれらのルールがどのように絡み合っているのかなど、分からないことが多い。特に大学生などが討議の文法をどのように習得して「良い討議」をできるようになるのか、私には不明だ。
月曜日の討議がどんな方向に行くかは現時点ではまったく分からない。(「討議の方向は討議を始めるまで不明だ」を討議の文法ルールに追加しよう。)でも、そこから「良い討議とは何か」という問いへの答えが少しでも見えてきたら、良い討議になるのだろうと思う。
何も貢献しない脱線だが、新しい文法を考えると「Rules Grammar Change: English Traditional Replaced To Be New Syntax With」という The Onion の記事を思い出す。一読をお勧めする。