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言葉の非難集

カテゴリ : 
くもの舌 (言葉について気が付いたこと、考えたこと)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2010-2-16 20:10
二十年以上前に、Lexicon of Musical Invective (音楽罵詈雑言辞典)という本を覗いたことがある。その著者 Nicolas Slonimsky が『ニューヨーカー』で面白くプロフィールを紹介されていたので、本の存在は知っていた。大作曲家とされている人々に対する、過去の批評家たちの激しい非難のアンソロジーだ。

私もいつか、時間を見つければ Lexicon of Linguistic Invective なる本、すなわち言語に対する罵りの大集合を編纂したいと思う。このアイディアが浮かび上がったのは、“Desultory Notes on Japanese Lexicography” (日本語辞書学に関する漫筆)という、オランダ人中国学者 Gustaaf Schlegel が書いた1893年の論文を T‘oung Pao というくもジャーナルで読んだからだ。この論文は日本での漢字の使用を紹介するものだが、「中国は正統、日本はデタラメ」が大前提となっているので、日本や日本語を絶えず批判している。例えば、

The Japanese ... have no right to transcribe their chinese loanwords phonetically by the wrong chinese characters as they do now, but will have to reform their system.

(日本人は漢語を間違った当て字で書く権利なぞまったく持っていない。日本語の表記を全面的に改良する必要がある。)(p. 177)

その他にこの論文で、日本語の表記や辞書の記述について ignorance、perversity、sloveliness、confusion、philological blunder、so-called translations、defective、faultive、vulgar、ridiculous、blundering、doubly wrong、erroneously、wrongly transcribed など、罵詈雑言のオンパレードである。Schlegel 氏は気難しい人だったのだろう。

これほど高密度の linguistic invective を他で見つけることは容易ではないが、やはり言語に対する悪罵が面白い。もっと集めてみたい。

ネイティブ・バッシング

カテゴリ : 
くもの舌 (言葉について気が付いたこと、考えたこと)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2010-2-1 21:00
言語教育において、ネイティブ・スピーカーの立場は微妙だ。「ネイティブだから自分の母語を完全にわかっているのではないか」という誤解がある反面、「ネイティブに過ぎないので言語を教える技能をたぶん持たないのではないか」というパーセプションもある。日本の英語教育界だと、この意見の対立は、「ネイティブ講師陣」で客寄せしようとしている英会話学校や、外国人講師の採用によって様々な問題に直面している高校や大学でも見られる。

この対立は新しいことではない。19世紀初頭のイギリスにもあった。
Teaching French is become the profession of Foreigners of all sorts, who know not how to shift for a living, and often have no qualification at all. The generality of the French know not their mother-tongue: but the few who are masters of it are not, on that single account, capable of teaching it.(フランス語を教えるのは、他の仕事ができない、多くの場合はまったく無能の外国人の職業になってしまった。フランス人でも、大半は自分の母語すらわかっていないし、母語をマスターしている小数でも、その理由だけでフランス語を教えることができるわけではない。)
これは、1812年初版の Lewis Chambaud 著の A Grammar of the French Tongue; with a Preface Containing an Essay on the Proper Method of Teaching and Learning that Language という本からの引用である。

私の場合、まず学習者の立場から言うと、1970年代、北米の高校と大学でロシア語を勉強していたときには、アメリカ、ユーゴスラビア、チェコスロバキア、エストニアなど出身の教師がほとんどで、ロシア語を母語とする人は、トロント大学の夏期集中講座で、ソ連から亡命してきたばかりのユダヤ人一人だけだった。一方、中国語の先生たちは、全員、中国か台湾出身のネイティブだった。今振り返ると、その教師たちの出身の違いが私の学習に影響を与えたのは、発音だけだった。ロシア語を勉強し始めたときにネイティブの発音を聞くチャンスがなかったので、悪習慣が定着して英語訛りが抜けなかったのに対して、中国語の場合はネイティブの発音を最初から真似する訓練ができたので、中国語を全くできなくなった現在でも、発音だけは綺麗だと中国人の知り合いに言われる。読解力、文法力などの面では、先生たちの「ネイティブ度」に特に違いを感じていなかったのだ。(日本語については、来日してから学び始めたので、すべての教師が日本人ではあったが、日常生活でも日本語の環境に浸かっていたため、先生たちの母語の良し悪しを判断できない。)

教師としては、自分の母語、すなわち英語しか教えたことがない。日本語の教科書を書いたことがあるが、教室では日本語を教えるチャンスはまだない。そのため、自分もたぶん、19世紀初頭のイギリスでも現在の日本でも批判されることがある、ダメなネイティブ講師を脱却できていないのだろう。
この間書いたように、外国語を学ぶときに教室などで使う言語については、今も昔も意見が分かれる。

昔の例をもう一つ。1888年に初版を持つ The Teaching of Languages in Schools では、W.H. Widgeryという人が次のように書いている。
Our whole system seems planned to give a self-conscious knowledge about the language and not the language itself.... If our object is to penetrate into the very arcana of another tongue, to think and feel as a Frenchman thinks and feels, then surely this will be accomplished the quicker, the more the English is kept out of sight.
(現在の教授法は、言語そのものではなく、言語に関する意識を与えることを企図しているようである。…外国語の奥義まで分かること、すなわちフランス人と同じように考えたり感じたりすることが我々の目的だとすると、英語を隠したほうが速いのだ。)
反対の意見は、C. Le Vert の A General and Practical System of Teaching and Learning Languages; Applied to All Languages, Especially the French という1842年の本に力強く提示されている。
[W]hosoever learns a second language must learn it by comparison with his own and in no other way; whereas the child cannot learn it in that manner; for he has no object for comparison.... The supposition, therefore, that a full-grown person can learn a second language in the very same manner that he learnt the first, amounts to an absurdity.
 (大人なら誰しも、第2言語を学ぶ際に母語との比較は避けられないが、子供はそのような比較対象を持たないので、同じ学び方はできない。…大人が母語と同じ方法で第2言語を学ぶことができるという仮説はばかげている。)
外国語をその言語だけを使って学ぶこと、すなわち母語への翻訳や母語での文法説明を避ける方法は direct method や natural method と呼ばれる。direct method という用語は、1900年ごろから盛んに使われるようになったようだ。例えば、Modern Language Teaching というジャーナルの1905年12月号には、"Direktor Walter on the Direct Method" という記事で、direct method の理念と実践がわかりやすく紹介される。その教授法は、会話の重視、翻訳や二言語辞書使用の回避など、現在の日本でも一部の教育者に強く支持されている教授法にほかならない。もちろん、母語の使用や訳読・翻訳の有益性を力強く主張する人も、昔も今もいる。

第2言語の有効な教授法について、科学的な研究は現在盛んに行われているにもかかわらず、このような根本的な問題についてコンセンサスがまだ得られていないのは、科学の限界か、人間の頑固さか、どちらを示しているだろう。

外国語学習の害

カテゴリ : 
くもの舌 (言葉について気が付いたこと、考えたこと)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2010-1-12 20:40
昔の外国語教授法の本を開くたびに、現在まで続いている論争が目に付く。先日は、教室内で使う言語について1812年の見解を紹介したが、今回は小学校における母語と外国語の学習の優先順位について取り上げる。外国語を母語と同時に勉強してもいいのか、それとも母語を習得してからにすべきなのか、という問題だ。

次の引用の出典は、1901年に出版されたL.A. Loweの論文だ。
It has often been uttered as a reproach — Surely children should learn their own language properly before learning another. True, they certainly should learn their own language, but while learning another. (p. 108)
(「子供はちゃんと母語を学んでから外国語の勉強に取り組むべきだ」という批判をよく聞く。母語を学ぶ必要があるのは確かだが、それは外国語を学習しながらすべきだ。)
この意見は、日本の小学校での英語必修化についてもよく聞く。その必修化を指導している文部科学省の外国語専門部会においても反対の意見が認められている。
小学校の段階で英語教育を実施することについては、国語力の育成との関係を懸念する指摘が見られる。例えば、先述の英語教育意識調査によれば、小学校で必修とすることに消極的な回答をした教員や保護者の中で、「正しい日本語を身に付けることがおろそかになると思うから」と回答する者が約4割となっている。
ただし、この外国語専門部会によると、必修化を支持する人の中では、小学校英語が「国語力の向上」にも資すると言う人もいるそうだ。L.A. Loweも1901年にほぼ同じことを書いた。
There can be no greater test of the knowledge of our language than that of a good translation from French, German or Latin into the mother-tongue. It is incomparably harder than an essay, or composition as it is called.
(フランス語、ドイツ語、ラテン語などから母語への翻訳ほど、母語の力を正確に試すものはあるまい。翻訳は、エッセー(作文)の執筆よりも、比較できないほど難しいからだ。)
私は、自分の経験から Lowe の意見に賛成したくなる。15歳ごろ、ロシア語の文法を勉強しはじめたらば、初めて英語の品詞や動詞の活用などを意識するようになった。しかし、私の経験と違って、実際に外国語の勉強で害を蒙った子供がいるかも知れない。ここでは、小学校の英語必修化の良し悪しを論じるのではなく、ただ100年以上経っても同じ論争が繰り返されていることを指摘したい。

今度はまた、昔から決着が見えない論争をいくつか紹介したい。

クラスルームの言葉

カテゴリ : 
くもの舌 (言葉について気が付いたこと、考えたこと)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2010-1-6 20:20
先月 25 日、新聞で次のニュースを読んだ。
文部科学省は 25 日、平成 25 年に実施する高校新学習指導要領の英語解説書も公表した。新指導要領は「授業は英語で行うことを基本とする」としたが、解説書は「必要に応じて日本語で授業することも考えられる」と記述。文科省は必ずしも授業全部で英語を使うという意味ではないと説明した。産経ニュース
昨年、ある高校の先生が「うちの高校では授業を英語で行うことはとても無理だ」と話していた。また、英会話学校で教えている友人から「会話力をブラッシュアップしたい高校教員の入学が増えている」と聞いていた。「授業は英語で行うこと」という案がかなりのインパクトを与えたようだ。(私も、ある出版社の人間から「『高校教師のためのクラスルーム英語』のような本を執筆しませんか」と誘われたが、断った。)

外国語授業でどの言語を使うかという問題は、新しい議論でもないし、日本だけでの議論でもない。1970 年代前半、私が通っていたカリフォルニア州の公立高校でも、一人のフランス語教師が「フランス語のみ」で授業を実施しようとしたら、生徒たちからかなりの抵抗を受けたと記憶している。私がとっていたロシア語授業も含め、他の外国語の授業は「英語(すなわち、生徒たちの母語)で行うことを基本」としていた。

私が進学したカリフォルニア州立大学でも、ロシア語と中国語の授業は基本的に英語で進められた。学習対象の言語のみでの初級授業を初めて経験したのは、26歳で来日して、東京の日本語学校で日本語を勉強し始めたころだった。その学校では韓国、台湾、フランスなど、英語圏以外の国の出身である生徒が多かったので、初級のクラスでも日本語以外の言葉を使わなかった。

先日紹介した外国語学習法の「くも本」のリストには、1812 年が初版であるフランス語の教科書がある。そのページxviには、次のことが書いている。
It is a great abuse introduced in most schools to force beginners to speak nothing but French among themselves. They of necessity must either speak wrong ... or condemn themselves to silence.
(生徒同士の会話でもフランス語以外の言葉を許さないという方針は、多くの学校で導入されているが、それは大変な虐待だ。学習者たちは、間違いを犯すか、沈黙するしかないからだ。)
19世紀初頭でも、今の日本でも、外国語授業で使う言語について意見が分かれるのだ。

外国語学習法についての古い本をめくると、今でも続いているような論争がよく目に付く。後日、またいくつかを紹介する。

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