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読者から貴重なメールをいただいた。
2009-6-24に投稿された「素朴な疑問」についての感想を述べさせていただきます。

ご指摘のような,英語教育論の論者の間で「憎悪」にも似た争いが起きる真の理由は,英語教育論を専門としていない私には,よく分かりません。

ただ,ご指摘のような事実があるのだとすれば,日本における英語教育論が,「科学」の域には達していないということの証左であろうとは考えられます。

各論者は,自己の教育論について,それぞれの教育における成功体験の分析などを通じて,ある種の「信念」としての正しさに自信を持ってはいるのだと思います。ただし,彼らは,科学的な結論として耐えうるだけの正しさ(特定の条件下における正確な教育効果の程度)を示すまでには至っていないのではないでしょうか。

「信念」は,複数存在していても何ら問題はないですし,その方が,むしろ自然だと思います。ただし,複数の信念は(例えは良くないですが宗教がそうであるように),互いにぶつかり合うものだと思います。そういうことなのではないでしょうか。
確かに、英語教育に関する論争は、宗教間のぶつかり合いには似ていないでもない。なお、一部の英語教育者は科学的な検証に基づいて論争していると主張するが、科学に基づいて宗教を展開していると主張する宗教家もいる。でも、英語教育は果たして宗教だろうか。

くもの古書展

カテゴリ : 
くも本 (面白い絶版書の紹介)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2009-8-18 18:20
先日、通勤の途中で東京・渋谷のデパートで開かれている「大古本市」に立ち寄った。「くも本」の出現のせいか、数年前から大学の図書館を利用できるようになったからか、私自身は以前より古本を買うことが少なくなったが、この古書展は大繁盛だった。私は一応、一冊ぐらいは買おうと思ったが、レジの前に中年の男たちが長い行列をなしていたから、やめた。たぶん催物の初日だったので、その男たちの多くは一般の読者や古本収集家ではなく、古本で商売をしている業者たちだったようだ。相場より安く貴重な本を見つけて、自分の店またはウェブで転売するつもりだったのだろう。(「男たち」と書いたのは、その長い行列には女性がいなかったからだ。そのような業界なのだ。)

棚やテーブルに並べられたいくつかの辞書が目に入ったが、数年前まで集めていた古い和英辞書は見つからなかった。それでふと思いついて、大学の研究室に着いてから、早速 Internet Archive で日本語の古辞書を探してみた。いろいろあった。

ヘボンの『和英英和語林集成』はいくつかのバージョンが採録されている。下記はその第4版(1888年)。

次を見て愕然とした。ヘボンの辞書のための漢字と熟語の索引、Index of Chinese Characters in Hepburn's Dictionary(1888年)だ。

昨年の5月に、私が紙の『英語青年』で書いたように、現在の和英辞典にはこのような索引はないので、日本語の学習者はたいへん困っている。でも121年も前にすでに存在していたのだ。

仏教の研究家にとっては、Hand-book of Chinese Buddhism, being a Sanskrit-Chinese Dictionary with Vocabularies of Buddhist Terms in Pali, Singhalese, Siamese, Burmese, Tibetan, Mongolian and Japanese(1884年)は今でも役に立つだろう。

John Batchelorの An Ainu-English-Japanese Dictionary(1905年)も興味深い。

Eclectic Chinese-Japanese-English Dictionary(1884年)も。

古本の業者たちには申し訳ないが、ただの「くも本」は素晴らしい。

有名な女性作家たち

カテゴリ : 
くも本 (面白い絶版書の紹介)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2009-8-10 19:30
『Web 英語青年』8月号には、鈴江璋子氏の、エリザベス・ギャスケルに関する興味深いエッセーが載っている。私は早速、その関連の「くも本」を探したが、少し難航した。

いつもの Internet Archive で短編「失踪」("Disappearances")を検索したら、そのタイトルでは出てこなかった。ギャスケル著の他の本をいろいろ見たら、ようやくその短編が見つかったが、下記のようにページの一部が欠けていた。



別の版を当たってみたら、やっと読めるバージョンを見つけた。


検索のついでに、次の本も浮かび上がった。左の絵はエリザベス・ギャスケル。



ギャスケルに関する章の末尾に、次のような評価がある。
For purity of tone, earnestness of spirit, depth of pathos, and lightness of touch, Mrs. Gaskell has not left her superior in fiction.
ギャスケルはもちろん載っていないが、1827年の Memoirs of Eminent Female Writers, of All Ages and Countries という本も面白そうだ。落書きなどがあって、いかにも「公立図書館の本」だ。



Internet Archive や Google Books は目録がじゅうぶんではないし、上のように本のスキャンに欠落があることも少なくないが、たいへん貴重な資源である。Internet Archiveのほうは非営利的な団体なので、お金の寄付を受け付けている。私もこの間、少し寄付した。

訳の質

カテゴリ : 
くもの舌 (言葉について気が付いたこと、考えたこと)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2009-8-3 21:40
先週、出張で札幌に行って来た。私は日本在住26年になるが、北海道は初めてだった。九州もまだ。旅行は苦手だ。

出張の目的は筑波大学と北海道大学が共催していた国際シンポジウムに参加することだった。テーマは「高等教育におけるプロフェッショナル・ディベロップメント」なので普通は「ことばのくも」で取り上げないものだが、言葉について思いついたことが一つあったのでそれを紹介する。

このシンポジウムには日本の他、中国、韓国、米国などの大学関係者もいたので、発表はぜんぶ英語で行っていた。ただ、出席者の大半は英語などを専門としない日本人だったので、3人の通訳者による同時通訳が提供されていた。日本語または英語が分からない人は、無線ヘッドセットで通訳が聞こえるという仕組みだった。私は通訳が必要なかったので、ヘッドセットを使わなかった。

翻訳の場合は、訳の質を評価するのに主に二つの方法がある。一つは、元の文章とその訳文を比較して、意味が充分に伝えられているか、間違った訳や抜けているところがあるかを検討することだ。その方法では、誠実な直訳が高い評価を受ける傾向がある。もう一つは、原文を見ないで、訳文だけを読むことだ。その方法では、両言語の対応よりも翻訳の読みやすさ、表現の自然さなどが高く評価されがちだ。(もちろん、両方の方法を同時に応用すべきだが、原文への誠実さと訳文の自然さを同時に実現するのは不可能な場合が多いので、どうしても片方へウェイトを置くことになる。)

しかし、同時通訳の場合は、最初の方法、すなわち発表者が口にする言葉が数秒後、通訳者が口にする言葉に漏れなく忠実に再現されているかを検討するのは無意味に近い。特に日本語と英語の場合は、センテンスの構造がだいぶ違うので、意味が実用的なレベルだけで伝えられているか、すなわちコミュニケーションが成立しているかにウェイトを置くべきだ。

北大でのシンポジウムについては、私は通訳をいっさい聞かなかったにも拘わらず、その質が高かったと断言できる。今まで出席した国際会議では、通訳を通して行った質疑は無意味に近いことが多かった。聴衆からの(例えば、日本語での)質問は発表者が(例えば、英語で)言っていたことと大幅にずれていて、そして発表者の答えがまたその質問にまったく答えにならなかったことが多い。しかし今回はそのようなずれはなかった。ディスカッションは片方が日本語で、また片方が英語で行っても、情報伝達はスムーズに成立していた。明らかに3人の通訳者が屈指のプロだった。

在道は短かったが、仕事が終わってから週末に、札幌市内の散策や小樽への遠足ができた。日曜日の夜に横浜の自宅に戻った。北海道にはまた行ってもいい。
清水由美さんの『辞書のすきま すきまの言葉』は来月の27日発売予定。私は監修として(またキャラとして)この本に少し関わっているのだが、その前書きに書いたように、その面白さは清水さんのお陰だ。「ことばのくも」の読者の皆さんにもご興味を持っていただけるような内容なので、是非読んでみてください。




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