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知の避難地

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くもの舌 (言葉について気が付いたこと、考えたこと)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2009-9-18 21:20
先日紹介した Bizarre という、19世紀中頃、フィラデルフィアで出版された雑誌を捲っていたら、次の記事に出くわした。
THE STUDY OF LANGUAGES.

   The relative value of the ancient and modern languages, considered not as valuable per se, but as a means to an end, has of late excited a good deal of attention, and as a consequence provoked a good deal of discussion. The interest in this subject has undoubtedly been stimulated by adventitious circumstances—by the general diffusion of education, and education of a higher standard than formerly prevailed—by the constant and increasing intercourse with Europe, and by the presence among us of so many learned foreigners. These gentlemen have, in most instances, escaped from the political storms, that convulsed their own countries, and sought an asylum in ours—bringing with them little else but blighted prospects and broken hopes. In the absence of other and congenial modes of employment, they have, in great numbers, resorted to teaching. ...
要するに、一般教養のためではなくプラクティカルな目的での古典語や現代外国語の学習が、最近、話題になっている。その理由の一つは、ヨーロッパの政治的混乱から米国に逃げて来た多数の知識人が、就職難で仕方なく外国語を教えていることだ。これは Bizarre の1854年4月15日号なので、「政治的混乱」は1848年革命を指しているだろう。

外国語教育の盛衰は現在、需要側、すなわち個人や社会の外国語学習への意欲やニーズで論じられることが多い。とはいえ、供給側である、教える人の有無も重要な要素だ。明治初期の日本では、英語やドイツ語を教えられる人が少なかったので、欧米から御雇い外国人を招くことになった。私の場合は、1970年代後半、米国の大学でロシア語と中国語を勉強できたのは、政治的な理由で東欧や中国からやって来た教師の存在が大きかった。米国出身の教師もいたが、大半は共産主義国からの難民だった。

現在は、冷戦が終わって、政治難民が言語教師になることが少なくなったが、他の理由で母国を「脱出」した人が母語を教えるケースが多いと思う。日本の英会話学校で働いている外国人の多くは、何らかの原因で、短い間でも自分の国に住みたくなくなったから日本に来たようだ。一般の人は外国などに住みたいと思わないから、日本で英語を教えているアメリカ人やイギリス人には、それぞれの本国でなら普通と見なされるような人は多くない。私も、アメリカから日本に来たのは26年前だが、当時「普通のアメリカ人」だったら、そのまま故国に残っていたと思う。例外として、米軍基地周辺で英語を教えている、軍人の配偶者などが挙げられる。私はその人たちに会うと、久しぶりに「普通のアメリカ人」に会ったという感慨を抱く。外国で日本語を教える日本人については、日本企業現地駐在人の奥さんたちが同じような「普通」の例外になるだろう。

東京の新大久保周辺、アジア諸国からのニューカマーが多数住んでいる地区では、韓国語や中国語教室の看板がところどころに見られる。近くの喫茶店でも、中国人が日本人に中国語の個人レッスンを提供している場面を何回も見たことがある。その教師たちが日本にいる理由にいろいろあろうが、本国より高収入を得るために「経済難民」になった人が多いだろう。

外国で母語を教えている人たちのほとんどは「普通ではない」と認めざるをえないが、その分、面白い人も多い。そして、我々変人の供給があるからこそ、日本での英語や中国語の学習、または海外での日本語の学習がしやすくなっているのだ。

いずれにせや、19世紀半ばの米国でも「外国語教師難民」がいて、そのために外国語学習熱が上がっていたことは、この忘られた雑誌をウェブ上で見つけるまで知らなかった。「くも本」の出現に改めて感銘を受けているところだ。

忘却された傑作

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くも本 (面白い絶版書の紹介)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2009-9-15 19:10
19世紀のイギリス小説を読むと、登場人物が作中で小説を読むシーンによく出くわす。例えば、
The progress of the friendship between Catherine and Isabella was quick as its beginning had been warm, and they passed so rapidly through every gradation of increasing tenderness that there was shortly no fresh proof of it to be given to their friends or themselves. They called each other by their Christian name, were always arm in arm when they walked, pinned up each other's train for the dance, and were not to be divided in the set; and if a rainy morning deprived them of other enjoyments, they were still resolute in meeting in defiance of wet and dirt, and shut themselves up, to read novels together. (ジェーン・オースティン『ノーサンガー僧院(Northanger Abbey)』)

The next day, however, as the two young ladies sate on the sofa, pretending to work, or to write letters, or to read novels, Sambo came into the room with his usual engaging grin, with a packet under his arm, and a note on a tray. (サッカレー『虚栄の市(Vanity Fair)』)

This was a realisation of those delights of life of which she had read in the thrice-thumbed old novels which she had gotten from the little circulating library at Bungay. (アントニー・トロロープ『我々の今の生き方(The Way We Live Now)』)

私はだいぶ前から、こうした作品中で読まれうるとしたら、それはどのような小説か、そしてそうした小説の中に忘れられた傑作があるかどうか、知りたかった。

現在は、米国やカナダの図書館の本棚に眠っている古い小説のスキャンがほぼ毎日 Internet Archive に追加されている。次の3点は、Wikipedia に出ていない無名の著者による小説だ。傑作かどうかわからないが、ここで紹介する。
The Fellow Commoner by John Hobert Caunter (1836)

A Romance of Modern London by Curtis Yorke (1892)

Jack Warleigh: A Tale of the Turf and the Law by Dalrymple J. Belgrave (1891)
それぞれを覗いてみたら、 A Romance of Modern LondonJack Warleigh は比較的平易な英語で書かれているが、 The Fellow Commoner はかなり凝った文体を使っている。そのストーリーも社会の下層で展開しているようなので、『虚栄の市』などのお嬢さんたちの趣味に合わなかっただろう。次はその書き出しだ。
James Dillon, known many years to a considerable portion of the comitatus vulgus, under the facetious sobriquet of the Hobgoblin, from his extraordinary adroitness and activity of locomotion, or by the more characteristic cognomen of Slippery Jim, from the eel-like lubricity with which he escaped from the official clutches of watchmen and thief-catchers, was born in Plumtree-street, St. Giles's, towards the close of a hot night in June, somewhere about the latter end of the last century. He first saw the light in the cellar of a small house, which, with only eight rooms, and these of very moderate dimensions, gave nightly shelter to a hundred and ten squalid creatures, exhibiting "the human form divine" under the mask of that odious moral deformity which eclipses the divine, and degrades the human into an object the most bestial and revolting. Vice here held her nightly orgies in unrestrained luxuriance; and so consummate was the profligacy which unceasingly prevailed in this moral pest-house, that it was completely shunned by the more respectable portion of the king's lieges, as if it had been the haunt of gnomes or devils.
cognomenという単語を初めて見た。その意味は文脈からも推測できるが、『リーダーズ』には「苗字; あだ名」と説明されている。

このリンクをたどると、多数の19世紀小説が見つかる。どうぞ、幾つかを読んでみてください。

ワイルドとBizarre

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くも本 (面白い絶版書の紹介)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2009-9-9 19:50
遅くなったが、『Web 英語青年』9月号関連のくも本を探してみた。

堀江珠喜氏の「ワイルド改葬百周年」にはワイルドの『サロメ』がフランス語で執筆されたことが書かれているので『サロメ』の仏語版を探すべきだったが、Aubrey Beardsley のイラストが素晴らしいので、ここでは1907年の英語版を紹介する。

Robert Rossのイントロでは
"SALOME" has made the author's name a household word wherever the English language is not spoken.
の not が面白い。

そして渡辺利雄氏の「The New York Times Book Review の100年 ——書評と文学史」は、子どものころから NYTBR を読んできた私には特に興味深い。渡辺氏のエッセーで思い出したのは、この間 Internet Archive で見つけた、19世紀半ばごろフィラデルフィアで出版された Bizarre, For Fireside and Wayside だ。この忘れられた雑誌にも書評が載っていたから思い出したが、Bizarre というタイトルからわかるように、ホラーなど、奇妙な内容もある。例えば、1852年10月22日号に載っている "An Adventure" という短編には、次の一節がある。
I knew it would be better, if possible, to avoid letting my tormentor observe my extreme terror, and endeavoured to govern the movements of my trembling fingers, but the moment I tried to fix my gaze upon the rocks before me, a pair of glowing eyes seemed to glare from between them into mine, while I distinctly heard a low, wild, chuckling laugh, as if the terrible creature were enjoying the horror I vainly endeavored to conceal.
同じセンテンスの中で endeavoured と endeavored の両スペルが使われていて、この号の日付が「OCOBER 22, 1853」となり、その他にも誤植が多く見られることから充分に校正された出版物とは言えないが、当時の米国地方都市の文化を知るためにも読み応えのある雑誌だ。研究テーマを探している米文学者には価値があるかも知れない。

Internet Archive には第1巻第2巻第3巻第4巻第5巻がある。

コツの不在

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くもの舌 (言葉について気が付いたこと、考えたこと)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2009-9-2 19:20
週末に関西に行って来た。若手生物学者たちの合宿で「科学英語のコツ」について話すためだった。科学研究でキャリアを築こうとする人にとっては、英語で論文を書けるかどうかが死活問題なので、私のワークショップが日曜日の午前9時から始まったにもかかわらず、60人ぐらいが参加してくれた。

東京大学関係の出版物とウェブサイトで、私は数年前、「科学英語を考える」というシリーズ名で、当時、熱中していた冠詞の意味や可算・不可算名詞の使い分けなどを取り上げた。たまたまそれを見た大学院生たちからの招待で、土曜日から山中の「神戸セミナーハウス」に行くことになったのだ。最初は、「科学英語を考える」の連載と同じように、日本人にとっての文法関連難題だけについて話すつもりだった。しかし、私はこの1、2年、「間違いを直す」という教授法について疑問を持つようになった。間違いが指摘された学生たちがそのためにミスを犯さないようになるかは依然として不明である。それに、私自身、5年ぐらい前から本格的に日本語で執筆するようになって、日本語での文章力や執筆スピードが上がっているが、研究社の編集者たちなどにいろいろ修正してもらって仮に「は」と「が」の使い分けが上手になっていたとしても、それが理由ではない。単に日本語でたくさん書いているからにすぎないと思う。

「たくさん英語で書きなさい」では「コツ」にはならないので、今回のワークショップでは初めてのことを試してみた。参加者たちの宿題に見られるいくつかの共通の問題(不適切な単語の選択、数の不一致、冠詞の抜けなど)を簡単に説明してから、全員に10行ぐらい、ある院生が書いた文章を配って、2〜3人のグループでその文章の改善できるところについて話し合うよう頼んだのだ。約20分後、それぞれのグループからコメントを求めたら、なかなかいい提案ばかりだった。前日、夜遅くまで懇親会を楽しんでいた若者たちも、そのディスカッションに元気に参加してくれた。

私が日本語で書く文章には専門的な内容がないので、普通のネイティブ・チェックで充分だ。しかし科学の最先端で研究している人にとっては、自分が書いた論文などを完全にチェックできるのは同じ分野の専門家にかぎる場合がほとんどだ。もちろん、ジャーナルに提出する前に英語力の高い人が原稿を校正すべきだが、その前の段階で、特に内容や論理の確認では日本人専門家同士の話し合いだけで内容も英語もかなり改善できるのではないかと思う。今回のワークショップの最後に、ネイティブ・チェック依存から脱出して、「小グループでの相互添削会」のようなものを研究室内などで定期的に開いたらどうでしょうか、と提案したのである。これも「コツ」にならないが、これから「添削会」を実施する若手科学者たちの英文執筆力が少しでも上がったら嬉しく思う。

私は土曜日の夜から歯が急に痛くなっていたので、楽しみにしていた東北大学の大隅典子先生のセッションに出席しないで、私のワークショップが終わってからすぐタクシーと電車で大阪まで急いだ。休日にも緊急歯科診療を提供している大阪府歯科医師会にここで深く感謝申し上げたい。

-dar と -tard

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ことばの網 (英語と日本語の新語珍語の紹介)
執筆 : 
Tom Gally  投稿日 2009-8-21 15:40
引き続き、英語の新しい語尾を二つ紹介する。(前に -rati-ista、そして -holic と -licious を紹介した。)

まず、-dar。

これは radar (レーダー)に由来する語尾。よく使われる gaydar 「ゲイを見分ける能力」(ルミナス英和辞典)は、「ゲイダー」として日本語にも入ってきたようだ。英語ではその他に lezdar (レズビアンを見分ける能力) 、 Jewdar (ユダヤ人を…)、 geekdar (オタクを…)なども造語されている。

次は、名詞の retard に由来する -tard。

形容詞の retarded は、20世紀の初めごろから「発達障害のある」の意味で一般に使われていたが、その後、差別表現と見なされるようになり、新聞などでは使用禁止となった。現在はその代わりに  developmentally delayed や mentally disabled などと言う。しかし、今でも、特に子どもや若者の会話では retarded が「ばかな」、 retard が「まぬけ」の意味で頻繁に使われている。

retard から -tard を切り離して造られた以下の俗語はウェブ上に見られる。いずれも下品で強い軽蔑を表しているので、ここでは定義を与えないでリストアップすることに止める。
asstard
bumtard
cocktard
diptard
fagtard
fucktard
jerktard
shittard
wadtard
Savage Love というコラムを執筆する Dan Savage 氏は、世間が自粛してもしばらくは retard や retarded をよく使っていたが、読者から批判を受けて現在はその代わりに leotard や leotarded を使うことになった。


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