英語の「なぜ?」に答える はじめての英語史 コンパニオン・サイト

第10回 なぜ you は「あなた」でもあり「あなたがた」でもあるのか?

1 単複を区別しないのは2人称代名詞だけ

英語は日本語と比べると,2人称代名詞を選ぶのに気を遣わないでよいので気楽だ,とよく言われます.日本語では,相手や状況によって「あなた」や「きみ」や「おまえ」などから適切なものを選んで使う必要があり,挙句の果てに,いずれもしっくり来ないので使わないで済ませるということも日常茶飯です.それに引き替え,英語では you という魔法のような1語で済んでしまいます.相手や状況によらず不変であり,原則として省略されないという点で,まさに日本語の対極に位置しているといっても過言ではありません.

英語の you はこのように気を遣わずに利用できて便利ではありますが,よく考えてみると,これは英語らしからぬ側面のようにも見えます.というのも,英語は何かにつけて数(単数と複数)の区別にうるさい言語であるにもかかわらず,2人称代名詞に関しては,単数の「あなた」と複数の「あなたがた」という2つの意味が,you という1つの形態に集約されてしまっているからです.

英語の数の区別のやかましさについては,すべての英語学習者が気づいているはずです.例えば student などの数えられる名詞は,文中ではそれだけで現われることはなく,a student とするか students とするか,数を明示することが求められます.そして,このような名詞が主語となる場合,現在時制では動詞も数に応じて語形を変化させなければなりません.“There is a student.” に対して “There are students.” のように be 動詞が区別されますし,一般動詞でも “A student enters the classroom.” (3単現の -s)に対して “Students enter the classroom.” のように語尾の有無が変化します.さらに,人称代名詞においても,1人称において単数の I と複数の we が対立しますし,3人称においても単数の he/she/it と複数の they が対立します.

ところが,この「数フェチ」ともいえる英語の単数・複数の区別へのこだわりは,なぜか2人称代名詞では抑制されています(「数」のような文法上区別すべき点を言語学では「文法範疇」と呼びますが,筆者は文法範疇とは「言語上のフェチシズム」にほかならないと考えています).2人称とは要するに対話の相手のことですから,コミュニケーション上,細心の注意を払うべき対象に違いなく,実際,日本語では呼び方におおいに気を遣うわけですが,英語ではこの2人称に限って,数の区別はどこ吹く風といった状況なのです.なぜ英語ではこうした状況が生じているのか,とても気になるところです.

本連載の趣旨から予想されるとおり,この問題にも驚くべき歴史的背景が隠されています.英語の2人称代名詞をめぐる劇的な歴史を通じて,人称代名詞という狭い体系ですら歴史的変化を免れなかったこと,そして実に21世紀の現在においても変化が続いていることを確認していきましょう.

2 古英語から初期中英語 ―「数」フェチのシングルスタンダードの時代

現代英語から千年ほど前の古英語の時代(700-1100年頃)にワープしましょう.英語の数の区別へのこだわりは古英語期から健在であり,むしろ現代以上にその感覚は研ぎ澄まされていたともいえます.というのは,名詞や人称代名詞において数の区別があったばかりか,主語の数に応じて動詞が語尾を変化させる機会も現代英語より格段に多かったからです.具体的には,3単現のみならず,その他の人称や,過去時制においても数の区別がありました.さらに,形容詞や冠詞の類いも,それが修飾している名詞の数に呼応して,語尾を複雑に変化させなければなりませんでした. 動詞変化の例として,本連載の第2回「なぜ3単現に -s を付けるのか?」で示した古英語 lufian (to love) の直説法現在の屈折表を再掲しますので,ご確認ください.

古英語 lufian (to love) の直説法現在の屈折表

では,古英語では問題の2人称代名詞はどうだったのでしょうか.予想されるとおり,2人称代名詞にも明確な数の区別がありました.単数の「あなた」は þū [θu:],複数の「あなたがた」は ġē [je:] として峻別されており,その対立は現代英語における a student と students のように明らかでした.単数形 þū は,現代でも聖書や古風な文脈で用いられる thou [ðaʊ] (しばしば「なんじ」「そなた」などと訳されます)に生き残っていますが,日常的にはもはや使用されません.複数形 ġē は,第4節で触れるように,語形としては you と関連し,現代英語にも “How d’ye do?” (初めまして) などの慣用表現に痕跡をとどめています.

現代英語で you が you (主格) - your (所有格) - you (目的格)と格によって屈折するように,thou も thou(主格)- thy (所有格) - thee (目的格)と屈折します.そして,古英語の þū と ġē もまた,格の種類はやや異なっていたものの,似たように屈折しました.

もう1つ古英語の2人称代名詞について特筆すべきは,単数の þū と複数の ġē のほかに,「あなたがた2人」を表す「両数」に用いられる特殊な代名詞が存在していたことです.ġit [jit]という形で,やはり格によって屈折しました(なお,1人称にも「私たち2人」の意で wit [wit] という両数形が存在しました).ただし,両数は次の中英語期にかけて廃れていき,英語から姿を消すことになります.

では,まとめとして古英語の2人称代名詞 þū (単数), ġit (両数), ġē (複数)の屈折表を見ておきましょう(後に「属格」は「所有格」へ,「対格」と「与格」は融合して「目的格」へ発展していきます).

古英語の2人称代名詞の屈折表

古英語に2人称代名詞が3種類あったことに驚くかもしれませんが,使用上の区別の基準は単純明快でした.それは「数」という軸1つに尽きます.「あなた1人」であれば þū,「あなたがた2人」であれば ġit,「あなたがたそれ以上」であれば ġē となる,それだけです.2人称代名詞に関して「数」という基準のみが存在する,シングルスタンダードの時代と考えることができるでしょう.

古英語〜初期中英語の人称代名詞

3 後期中英語から初期近代英語 ―「数」と「親・敬」のダブルスタンダードの時代

古英語の2人称代名詞体系は,ほぼそのまま初期中英語(1100-1300年頃)に受け継がれました.初期中英期には両数が衰退し,現代英語のような単数と複数の2系列に再編成されたという変化はありましたが,「数」というシングルスタンダードによって þū か ġē かが選択されるという基本方針は変わっていませんでした(実際には,この時代には各々 thou, ye などと綴られるようになっていました).

ところが,後期中英語(1300-1500年頃)に近づいてくると,フランス語などのヨーロッパの近隣言語における言語習慣の影響を受けて,英語の thou と ye の使い分けに追加の基準が持ち込まれるようになりました.従来の「数」による基準と並行して,「親」と「敬」の対立が関与することになったのです.具体的にいえば,2人称代名詞の単数に関して,それが指している相手の人物が社会的・心理的に自分と同等あるいは下位であれば「親称」の thou を,自分よりも上位であれば「敬称」の ye を用いるという慣用が導入されたのです.日本語でいえば,thou は「きみ」「おまえ」「きさま」,ye は「あなた(さま)」辺りに相当するでしょうか.なお,2人称代名詞の複数に関しては,「親・敬」の区別はなく,親称的な「きみたち」も敬称的な「あなたがた」も ye としか表現できませんでした.「親・敬」の基準は,単数のみに関わる限定的な基準だったのです.ちなみに,次節で取り上げるように,ye は後に you という語形に取って代わられることになります.


後期中英語〜初期近代英語の人称代名詞

このような「親・敬」を表わす習慣がいかにヨーロッパの諸言語で発生し,英語(およびその他の言語)に広まったかについては諸説があります.そのうちの一説によれば,この習慣はローマ皇帝の呼び方に由来しているといいます.古典ラテン語では,2人称単数の代名詞として tu という語(英語の thou と同根)が用いられていました.しかし,4世紀に,ローマ皇帝を指す代名詞として,tuではなく複数形 vos (英語の you と同語根)が特別に用いられるようになりました.というのは,当時のディオクレティアヌス皇帝の改革により,皇帝職こそ行政的には1つとされたものの,本人を含めて複数の皇帝(東西ローマ帝国の各々に正帝と副帝がおり計4名)が立つことになったからです.こうして,いずれかの皇帝に呼びかけるときにも,同時にすべての皇帝に呼びかけるかのごとく複数形 vos を用いる習慣が発達することになったというわけです.

また,別の説によれば,1人の皇帝が複数形と結びつけられたのは,統治される帝国民の統合と考えられたからではないかともいわれます.英国君主が自らを指すのに I ではなく we を用いる(この we の用法は “royal we” と呼ばれます)のと同じ理屈で,ローマ皇帝は自らを指して nos (私たち)と言ったのであり,それに対応して人々からは vos (あなたがた)で呼びかけられたのだという説です.さらに別の考え方として,指示対象が単数か複数かという現実の人数とは別に,偉大な権力はそもそも複数性を喚起しやすいということがあります.確かに,偉大であることと複数性は,イメージとして自然に結びつけられそうです.

以上の説のいずれか,あるいはその組み合わせにより,1人の皇帝を2人称複数形で指示する用法が発達したと考えられています.やがて,この言語習慣は,ローマ皇帝のみならず各国の権力者へ,そしてさらに一般化して身分の高い人々に対しても適用されるようになりました.ただし,ラテン語から派生したロマンス諸語においても「親・敬」の基準は当初から体系的に適用されていたわけではなく,定着するまでに数世紀の時間がかかったようです.定着の時期は諸言語間に差はありましたが,およそ12-14世紀にこの習慣が確立していきました.英語へも,中英語期の半ばの13世紀頃に導入されました.

さて,この新しい基準のことを「親・敬」と呼んできましたが,実際には相手の身分,発話の状況,話者の感情・態度,文体などの機微によって,親称 thou と敬称 ye のいずれがふさわしいのかが決まりました.日本語における「きみ」「おまえ」「きさま」「あなた」などの多者択一の悩ましさと同様に,thou と ye の選択には社会心理言語学的な機微が関わっていました.日本語ではいずれも用いないという省略の手段に訴えて逃げることも可能ですが,英語では主語を省略することはできませんし,多者択一ならぬ thou か ye かの二者択一ですので,選択のプレッシャーはひとしおだったかもしれません.

チョーサーの『カンタベリ物語』の「托鉢僧の話」から興味深い例を引きましょう.召喚吏が老婆から金を巧みにだまし取ろうとする場面で,老婆は最初は召喚吏に対して丁寧に接し,以下の例文1のように「あなた呼ばわり」の you, youre を用いています.ところが,ある段階で金をだまし取られることを悟った老婆は,例文2のように急に口調を変えて,召喚吏を「おまえ呼ばわり」の thou, thy で呼んでいるのです.この例から,老婆の態度が敬意から軽蔑・ののしりへと変化したことが読み取れます.

1. God save you, sire, what is youre sweete wille? (あなたに神のご加護がありますように,召喚吏さま,あなたのおやさしいご用件は何でございましょうか.)
2. Thou lixt! . . . Unto the devel blak and rough of hewe / Yeve I thy body and my panne also! (この嘘つきめ.色黒で荒っぽい悪魔に,おまえの体とあたしの鍋とをくれてやる.)

以上のような経緯で,英語でも「数」に加えて「親・敬」という軸が加わり,2人称代名詞の使い分けが複雑化しました.こうして,古英語期の単純明快だったシングルスタンダードが,中英語期中にややこしいダブルスタンダードへと変化し,それが次の初期近代英語期(1500-1700年)にも持ち越されました.

初期近代英語期の代表的文人といえばシェークスピアですが,『ロミオとジュリエット』では,2人称単数について親称 thou と敬称 you の使い分けに関するおもしろい例が確認されます.舞踏会で初めて出会うシーンで,男性のロミオは女性のジュリエットに対して thou で話していますが,ジュリエットはロミオに対して you を用いています.これは,当時の男女の社会的地位の差を映し出したものと考えられます.ところが,有名なバルコニーのシーンでは,ジュリエットは独り言で “O Romeo, Romeo, wherefore art thou Romeo?” と述べています.この時点までにロミオとの心理的距離が近くなっていたために,ジュリエットは you から thou へと呼び方を切り替えていたのです.

4 後期近代英語から現代英語 ―区別なきノースタンダードの時代

「親・敬」の基準の適用は確かにシェークスピアの時代にも見られましたが,thou と you の区別の最盛期はすでに過ぎていました.17世紀中には親称の thou は衰退し始め,標準英語では18世紀に廃用となります.こうして,後期中英語に発達した「数」と「親・敬」のダブルスタンダードは,後期近代英語(1700-1900年頃)に入る頃までに消滅しました.

そして,その衰退の仕方に興味深い点がありました.「親・敬」という比較的新しく加わった基準が機能しなくなるとともに,より古い基準である「数」の基準も連動して消えていった点です.いまや,相手が単数であれ複数であれ,社会的に上位であれ下位であれ,とにかく1つの不変の you を使っておけばよいという選択不要の状況が生じました.ダブルスタンダードの時代から,一気にノースタンダードの時代へと飛躍したのです.これが現代英語(1900年頃-現在)にまで引き継がれました.


後期近代英語から現代英語の人称代名詞

第2節で少し触れましたが,ここで ye と you という2つの語形の関係について述べておきます.中英語以降の ye という語形は,古英語の複数主格形 ġē に由来します(第2節の古英語の屈折表を確認してください).一方,you は古英語の複数対格・与格形 ēow に由来します.つまり,ye と you は,ちょうど I と me のように,本来は格によって使い分けられるべき形でした.例えば,“Ye love me, and I love you.” のごとくです.しかし,対格・与格(現代英語の目的格に相当)の you は弱く発音されるとしばしば主格 ye と区別がつきにくくなり,16-17世紀までには両者の形態と機能の混同がみられるようになりました.“You love me, and I love ye.” のような歴史的にみればちぐはぐな例や,“You love me and I love you.” のように一貫して you で通す例も生じるようになりました.結果としては,最後の例のように格にかかわらず常に you を用いる習慣が定着しました.なお,かつての主格 ye は,現代英語でも [ji(:)] と発音されて,“How d’ye do?” (初めまして),“Look ye.” (聞け),“Ye are the salt of the earth.” (汝らは地の塩なり)などの慣用表現に痕跡を残しています.

さて,なぜ後期近代英語にかけて「親・敬」の基準が衰退したのか,という疑問に迫りましょう.この疑問は英語史上の大きな謎の1つであり,今なお完全には解明されていません.しかし,有力な説として,近代英語期の社会に平等主義の潮流が生じてきたからとする説があります.身分差を際立たせる thou と you の区別を続けることが,時代にそぐわない言語習慣とみなされるようになったという説です.しかし,仮にこの説を受け入れるとしても,なぜ thou と you の対立が thou の方向ではなく you の方向へと解消することになったのかは不明です.平等主義の潮流が原因とするならば,むしろ「高い身分」を体現していた you こそが切り捨てられて然るべきではないか,とも考えられるからです.加えて,歴史的には,thou こそが古英語以来の純正な2人称単数形であり,そちらのほうが代表形としてふさわしい,と考えることもできそうです.実際,フランス語史の話題ではありますが,人民の平等を目指したフランス革命期には,上流階級が頻用する敬称の vous は忌避され,親称の tu が汎用の2人称単数代名詞として好まれたという歴史的事実もあります.

英語で thou ではなく you が一般化した背景には,ある社会言語学的状況が関与していたのではないかという別の説もあります.1650年代にイングランドの聖職者ジョージ・フォックスが創始したキリスト教の一派フレンズ会の信徒たち(俗称「クエーカー教徒」)は,習慣的に,互いに thou を用いていました.神の前では信徒間に上下の別はなく,みな平等であるという思想に基づいた言語習慣です.この点では,上述のフランス革命期の tu の一般化と軌を一にしていたことになります.現在でも多くのクエーカー教徒たちは thou を用いており,なかには仲間内では thou を,外部の人々に対しては you を用いるというように,使い分けをする人もいます.

さて,クエーカー教徒や,同じく平等主義を掲げるもっと急進的な派閥の人々は,当時のイングランド社会の中では少数派であり,敵意をもって見られることもありました.そこで,多数派の社会は,クエーカー教徒たちの標榜する平等主義の象徴ともいえる特徴的な thou の使用をけむたがり,それを忌避して,むしろ対立する you を好んで使うようになったのではないか,ともいわれます.この説は,しばしば英語史の概説書などでも言及されますが,必ずしも定説として受け入れられているわけではなく,1つの可能性の段階に留まっているということは付け加えておきたいと思います.

このように原因については諸説がありますが,結果として英語では17世紀以降,親称 thou が衰退し,敬称 you が一般的に用いられるようになりました.いまや,1人の相手を指す場合には,「親・敬」にかかわらず you を一律に用いるという状況となりました.そして,複数の相手を指す場合にも,古英語以来ずっと ye (前述のとおり初期近代英語以降は you の語形に一本化しました)しかあり得なかったわけですので,結果として2人称代名詞は「数」にも「親・敬」にもよらず,とにかく you を使っておけばよいという至極単純な慣用が確立しました.

現代英語ではすでに you から敬称の含意は失われています.しかしその痕跡は,所有格の形ではありますが,Your Majesty 「陛下」(君主),Your Excellency 「閣下」(大使,知事,総督,司教・大司教など),Your Grace 「閣下,猊下」(公爵,大司教など),Your Highness 「殿下」(皇族),Your Lordship 「閣下」(公爵をのぞく貴族,主教,裁判官など),Your Honour 「閣下」(地方判事など),Your Worship 「閣下」(治安判事,市長など)などの一連の称号に感じ取ることができます.これらはいずれも大文字で始められ,対応する動詞はあたかも he や she が主語であるかのように3人称単数で呼応するのが特徴です.「親・敬」の基準がまだ生きていた中英語〜初期近代英語時代の面影を伝える化石的表現といえます.

本節の終わりに,thou が消失し,you に一本化した近代英語期の言語変化の余波について触れておきましょう.thou が失われたことによって,2人称代名詞の選択に関与していた「数」と「親・敬」という基準が無に帰したことは,いうまでもなく重要な変化でしたが,もう1つ見逃してはならないのは, thou に対応する動詞の現在形の活用語尾 -(e)st が英語から消えていったという事実です.現代英語では,“thou ist” (you are), “thou hast” (you have), “thou dost” (you do) などの -st 語形に出会う機会はほとんどありません.結果として,いまや現在形に残る特別な語尾は3人称の -(e)s のみであり,それが非常に浮いた存在に見えるのですが,もし “thou 〜(e)st” が消えずに残っていたならば,3単現の -(e)s のみを特別視する観点も生じなかったことでしょう.その意味で,thou の消失,そして you の一般化という変化は,本連載の第2回「なぜ3単現に -s を付けるのか?」の問題とも間接的に関係しているのです.

5 20世紀から21世紀へ ―シングルスタンダードへの回帰

現代英語では,日常で thou を目にする機会はありません.聖書やことわざなどの古めかしい文脈,あるいは逆に冗談めかして言う “Know thyself.” (おのれを知れ)などの表現が稀に残っているにせよ,事実上 thou は消えたといってよいでしょう.しかし,それは標準英語における話であり,英語の諸方言を含む非標準英語を見渡せば,現在でも thou や thee は意外と使われています.以下は,2人称単数形に関するイングランドの現代英語方言地図です(Upton, Clive and J. D. A. Widdowson. An Atlas of English Dialects. 2nd ed. Abingdon: Routledge, 2006. をもとに作成).you, ye のほか,thou, thee の系列も割と広く用いられていることがわかります.


2人称単数形に関するイングランドの現代英語方言地図

さて,方言によっては古い thou が残存しているという「過去志向」の現状を確認しましたが,「未来志向」の新傾向も現在展開中です.現代までに2人称代名詞は you に一本化し,「数」も「親・敬」も関与しないノースタンダードに到達した,というように話を進めてきましたが,実は2人称代名詞体系は,再び古英語のように「数」の基準だけに依拠するシングルスタンダードへと回帰しつつあるようなのです.状況は方言によって異なりますし,多くの場合インフォーマルな文脈に限定されていますが,2人称複数を明示するのに you とは異なる語形が用いられるようになってきています.

yous(e): 北米の多くの地域(とりわけニューヨークやボストン),アイルランド,イギリス(リヴァプールやグラスゴー),オーストラリア,ニュージーランド
you-uns: アメリカ高南部(西ペンシルヴェニアやアパラチア地方)
you-all, y’all: アメリカ南部
you guys, youse guys: 話し言葉で
you folks, you people: 比較的フォーマルな文体で

筆者の知り合いのカナダ出身の英語母語話者は,家庭で子供たち複数を指すときには,you ではなく you guys を日常的に用いると述べていました.もし you(単数)と you guys など(複数)の対立的使用が今後定着していくのだとすれば,それは「数」の基準のみに依拠していた古英語の状況へ回帰しているということになるでしょう.

これまで見てきたように古英語期から激しく変化を遂げてきた2人称代名詞体系のことですから,現在も新しい変化の最中にあるとしても,読者の皆さんは,もうそれほど驚かないかもしれませんね.古英語から現代英語の最先端までの,2人称代名詞体系の変化をまとめます.


2人称代名詞体系の変化

こうして変化の歴史を俯瞰してみると,2人称代名詞体系はおよそ千年かけてぐるっと1回転したかのように見えます.別の観点に立てば,古英語では「数」のシングルスタンダードで成り立っていた単純な体系が,中英語期に近隣言語の影響のもとで「親・敬」の軸が導入されたことによっておおいに乱されたけれども,近代英語以降,数百年の時間をかけて再び元の状態へと回帰しつつある,とも言えるでしょう.

今回の連載記事では,2人称代名詞体系という非常に狭い世界に焦点を当てましたが,こんなところにも英語史のダイナミズムが隠されているのです.


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